フィクションの効用について(プラトンはNetflixを薦めるか?)

年末久しぶりに実家に帰ったときに、本棚にプラトンの『国家』があったので読んでみた。主な形式としては、プラトンの師であるソクラテスが数人と対話しながら、ある単語についてその真に意味するところを追求しあうというものだ。たとえば”幸福”とは何ですか、”正義”とは何ですか、のように。そこからソクラテスが持論を展開していく。ただし、例えばサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』のように、具体例や秩序だった理論が援用されていることはあまりなく、あくまでも抽象的な議論に終始している印象だった。

これは、古代のギリシア語というものがそもそも言語として未発達で、ひとつの単語に広すぎる意味が含まれていることにも拠っている。(たとえば、イギリスのプラトン研究者であるブラックによると、”嘘”と”存在しないもの”は古代のギリシアでは同じ表現をとる。したがって議論の組み立て方次第では”この世に嘘や虚偽は存在しえない”という結論を導くことが可能となってしまう)

こういったこともあって、プラトンを読むのはなかなか自分には骨が折れることで、正直よく分らない所も多かった。しかし、強く印象に残った部分があるので、今回はそれについて書きたいと思う。

それは教育についての記述だ。前提として、ソクラテスは”言葉(話、という意味も含む)”というものには二種類あると語る。ひとつは真実のもの、もうひとつは作りごとのものである。つまり前者はノンフィクション、後者はフィクションと解釈できると思う。

その上でソクラテスは、

教育はその両方の種類の言葉(話)で行なわなければならないが、作りごとの言葉(話)による教育のほうを、先にすべきではないか

『国家』377A

また、

われわれは子供たちに、最初は物語を話して聞かせるではないか。これは全体としていえば、作りごとであるといえよう。真実もたしかに含まれてはいるがね。

と説明した。

ここでソクラテスの論はこの後、ざっくり言うと”子供は魂が未熟であるから、どのような物語を聞かせていくかは厳しく監修していかなければならない”と移っていく。しかし僕には、教育にはまずフィクション、虚構をもってせよという考え方自体が印象的だった。

現代の教育でフィクションに触れる機会を考えてみると、まずは小さいころに絵本を読み聞かせてもらう、というところから始まることが多いだろう。その後、国語や道徳の授業でもいくつかの物語に触れる。それからTV番組や映画がある。あとはまあ、本を読めと言われるくらいで、”フィクション”に触れること自体の重要性はあまり声高に叫ばれていないのではないか、という気がする。本を読めというのも、どちらかというと言語能力向上のためという側面が強く、「小説も必ず読め!」とはあまり言われない。アニメやドラマ、映画に関しては、見すぎるなという声はあっても絶対に見ろというのはあまり聞いたことがない。

しかし、現代においてもフィクションに触れることはほんとうに重要だ。それを示した、オクラホマ大学心理学科の大学院生による研究がある。それによると、ノンフィクション番組よりもドラマを見た人のほうが、他者の感情を分かり共感したり、自分の感情をコントロールしたりする能力が向上するということである。この理由について、研究者はこう推測している。

架空の人物たちが苦難を経験する様子を目の当たりにすることによって、たとえば、「もし自分がその登場人物の立場だったら」というように、彼らが抱える問題をさまざまな角度から考えるようになるからではないか

良質なTVドラマを見て「心の知能指数(EQ)」を高めよう, Lifehacker

しかし、個人的にはこれだけではあまり納得できない。ドキュメンタリーやバラエティ番組に出てくる現実の人々もそれぞれ感情を持ち、苦難を乗り越えることがあるだろうし、それに共感することはできるはずだ(『シャーク・ウィーク』の他に何を見せたか知らんけれど)。ではフィクションの強みとはいったい何なのだろうか?

自分なりに結論を出してみると、「フィクションに触れることが大切な理由は、自分の感情世界からより遠くの世界までジャンプする筋力を養えるからだ」ということになりそうである。

あるブログで、読書(ここでは小説を読むこと)の効用についてこのように述べられていた;

読書は「メタ認知」能力を養う働きをもっているのだと思います。(中略)「メタ認知」はいわば、自分の感情世界の外側に、もう一つの世界を作り上げるようなことです。そのことにより、自分の感情を客観的にとらえ、感情をコントロールすることができます。

それでも本を読んだ方がいい理由。 – 文鳥社とカラスの社長のノート

多くのノンフィクションが作り出す世界に比べ、フィクションが作り出す世界は自分の感情世界からより遠いところにあると考えられるのではないか。フィクションでは、現実にはなかなかありえないような行動をとる人が多かったり、訳の分からない出来事が頻発したりする。作品によっては、非常に限られた情報量から登場人物の性格などを読みとっていかなければいけない。理解も共感も比較的難しい。しかしその遠い距離をジャンプして、フィクションの世界を自分なりに読み取る努力をしていけば、心に筋力のようなものがつき、他人がどう思うかを理解したり、逆に自分の感情を客観視したりしやすくなるのではないか。

先ほどのブログでは、村上春樹を読んで悪い宗教から抜け出した人の例が紹介されていた。これも、”洗脳されている”という俯瞰で見ないと理解し得ない状況を、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という難解な物語で鍛えた筋力でジャンプして認識した結果だと思う。

もちろんフィクションに近いノンフィクションもあるだろうし、その逆もあるだろう。また若者にとっては、若者の生活を描いたドラマよりも江戸時代のことが描かれたドキュメンタリーの方がより自分の感情世界より遠く、そのぶん心の筋力を必要とするかもしれない。要は、自分の感情世界からより遠いところにある世界に触れ、心を鍛えていくことは誰にとってもかなり有益なのではないか、ということです。プラトンがどう考えていたかは知らないが、おそらく二日酔いの朝にNetflixに費やす時間は無駄ではない。

偉そうに書いたけれど、ここでちょっと自分はどうだろうと思い、ネット上の簡単なEQテストをやってみた。数年前にえげつないスコアを叩き出したのだが、物語の効用か?今はかなり高くなっていた。よかった。