午前二時、宿直室にいた男のスマートフォンが鳴った。
彼はワンコールで出た——卓上の固定電話の子機を取るのと同じスピードで出た。画面が光り出すとほぼ同時に下部に表示されたアイコンを右へスワイプした。毎日緊急通報を受信する者としての職業病のようなものだった。彼は深夜の友達からの飲みの誘いであれ、くだらないセールス・トークであれ、いつでもワンコール以内に出た。その癖は必要以上に誠実なかんじを与え、無意識のうちに、会話の根底にささやかな緊張感がもたらされてしまう。
しかしながら、今度の電話の主はそれとは無縁であった。
「ねえ、何してんの?」彼女は気の抜けた声で聞いた。
「今日は夜の当番の日だよ」彼は子供に算数を教えるような口調でいった。
「ええ!なんでよ」驚いた声が聞こえる。「発売日でしょう」
彼は壁にかかったカレンダーを見た。そこには防災についての標語がデカデカと印刷されていた。きょう?彼はひやりとした。
「もしかして忘れてたの?」彼女がなじるようにいう。
「えっと、あした、じゃなかったっけ?」
「今日です。今日の午前三時!」彼女は一文字ずつ強調して言った。
発売日を間違えていた。関係が始まって以来こんな失態を犯すのは初めてのことだ。
「ごめん、発売時間に間に合うのはどうしても無理そうだよ、昼には終わるから、それから行こう。大丈夫だよ。買えるから。ねえ?」
電話の向こうにしばらくの沈黙があった。
「ちょっと」彼女がいった。「今からそっちに行くね」
「いや」彼は唐突な宣言に驚き、そこで言葉を詰まらせた。それからなんとかして彼女をなだめるべく、矢継ぎ早にいった。「流石にまずいんじゃないかな、ここには外部の人は立ち入れないし、そもそもこんな時間だから、また」
「行くから」彼女はそういって電話を切った。彼が耳から電話を離したときには通話画面はチャットに戻っていた。彼はなんとかして彼女の到来を阻止するべくメッセージを送った。既読がつかない。
彼はため息をついて、小さな宿直室を見渡した。灰色の壁に囲まれ、簡易ベッドが一つと書物机が置いてあるだけの部屋だ。彼は机に向かって必要書類の記入をしていた。窓はなく、蛍光灯の光が不自然に部屋全体を満たしている。装飾を極限まで排したこの部屋で唯一飾りと呼べるものがあるとするならば、それはさきほど男の悩みを思い起こさせたばかりの、防災を啓発するカレンダーのみであった。
まずい。明日の深夜かと思っていた。彼はここに彼女がくるということに対する実際的な懸念よりもむしろ彼女をまた怒らせてしまったことに対する漠然とした不安のほうに支配されている。
彼はふたたび自分のスマートフォンを見た。まだ既読はない。それから机の上に放り投げた。彼のスマートフォンは一年前に発売された時代遅れの代物であった。まだスマートフォンが完全に四角だった時代のものだ。こんなもののために……、どうかしている。
このたびオレンジズ・アンド・レモンズ社(以下オーエル社)から発売されたのは新型スマートフォン『トライ・ライノセラス0724385068324』である。前作『トライ・ライノセラス0724385068323』からおよそ二週間ぶりのリリースとなる。オーエル社の今週水曜日の定例プレスリリースで発表された。暗い場所での撮影機能が大幅に上昇しバッテリーの容量が0.25パーセント増加した。発売はオーエル社本社併設直営店限定となる。
どうかしている。
十五分後に再び彼女から電話があり、署の正面玄関に到着したので迎えにこいということだった。彼は書類の作成を中断し、セキュリティーカードを頭から下げて暗い廊下に出た。正面玄関に到着すると彼女を乗せてきたタクシーがウィンカーを光らせて大通りに合流するところだった。
彼女は片足に体重を預けて奇妙に斜めに立っていた。スポーツカーより赤い薄手のロングコートに黒のマフラーを合わせ、後ろ髪の先は綺麗にその中に収納されていた。春先とはいえ夜は冷え込むので、彼女はとても寒そうにしていた。彼はそれを見て彼女を一刻も早く暖かい宿直室に案内しなければならないという使命感を感じた。
「来ちゃった。初めてだね」彼女はこちらに気づくと寒さに顔をしかめたままいった。それから古ぼけた建物の方を見やっていった。「だっさい建物。転職したら?」
「寒いところごめんね」彼はにこやかにいった。「とりあえず部屋までおいで」
「ちょっと待って」
彼女はポケットからトライ・ライノセラス0724385068323を取り出すと署の正面玄関のほうに向け、写真を撮影した。それからインカメラに切り替えて自分と署の建物がどちらも画面に収まるようにすると、それまでが嘘のように満面の笑みを浮かべた。
「あなたも入って」
彼がその画面に入ると、にこやかにツーショットを撮ろうとする。
「新型のやつなら」彼女が不満そうにいった。「もうちょっと綺麗に写るんだろうなあ」
彼はインカメラを見るふりをして画面に写る彼女の顔をじっと眺めていた。トライ・ライノセラス0724385068323でもじゅうぶん綺麗だった。
その後彼らは宿直室に移動し、今回の問題についての話し合いを始めた。
「こんなことってなかったじゃん」部屋に着いて簡易ベッドに腰掛けると同時に彼女がいった。
「本当にごめん。明日と勘違いしていたんだよ」
「これまでだって午前零時発売とか、五時発売とか、あった!それでも欠かさず時間通りに連れて行ってくれてた!」彼女は彼のほうをにらんだ。
「そうだね」
「ああ、コスギくんならこんなミスはしないなあ」
コスギくん、と聞いて彼はキュッとしめつけられるような感じをおぼえた。彼はコスギくんに負けるわけにはいかないのである。これまでの累積ポイント数でいうと彼とコスギくんは五分五分であるはずだった。ここでの加算漏れ——むしろ大幅減点、これは、致命傷となる。なんとしてでも彼女を発売時間までにオレンジズ・アンド・レモンズ社本社併設直営店に連れていかなければならない。
そのとき——彼にすばらしいアイデアがひらめいた。
「いけるさ」彼はいった。「救急車でいこう」
「いいの!」彼女は目を輝かせた。
彼は所定の手続きを踏んで、救急車の出動準備をはじめた。緊急通報は録音されるが、それ以外の処理については書類上ですべてどうにかすることができる。長年消防署につとめあげ、ひとりで夜の番を任されるようになった彼の権威はコスギくんを遥かに凌駕するもので、そして今こそそれを彼女に見せつけるときだった。そこで、彼はまず彼女の端末(トライ・ライノセラス0724385068323)から署に緊急通報を入れてもらった。患者の場所はオレンジズ・アンド・レモンズ社本社付近の民家。通報を受け駆けつけたが、実際に患者の容態を観察したところ、緊急搬送の必要なし、と判断した——このように書類上には記録される手はずになっていた。文句のつけようのない企てだった。どちらにしろ実際の通報も十中八九がこういったたぐいのものごとなのだ。
表の分厚いシャッターが上がりはじめ、彼は実際の出動準備さながらの素早さで運転席に乗り込んだ。いつもとの違いは、助手席に美人が乗っていること、そして緊急車両を運転する人間としてはあまりにも丁寧で、穏やかで、優しい彼の言葉遣いだけである。
「わるいんだけれど、マップで案内してもらえるかな」
「いいよー!」彼女は救急車に乗るのは生まれて初めてだろう。しかも助手席に。本体から三本のツノのようなものが生えたトライ・ライノセラス0724385068323を取り出し、地図アプリを起動した。彼はいつも不思議に思っていたのだが、そのツノはポケットの中で痛くないのだろうか?
「四十五分でつくって。大丈夫かな?」
この時点で午前二時三十二分。発売までは三十分を切っている。彼はエンジンをかけながら、いった。
「救急車で何分って書いてある?」
彼女は笑った。出動。
けたたましいサイレンの音が鳴り響き、彼らのディープ・インパクトは幹線道路に合流した。彼はアクセルを足でぐっと押した。キュッという小さな音がした。ラバーのソールに刻まれた溝とアクセルの表面がかみ合ってここちよい。
合流してすぐに、銀色と白の軽自動車を2台追い越した。
「こいつらはなんで止まらないんだ?」彼はかんかんになって言った。
今日が異例なのは車内だけのことではなかった。いつもはどれだけ車の通りが少ない時間帯であれ、救急車の接近を察知したドライバーたちは道路の端に寄せて止まることが常だった。それが緊急車両に対するマナーであった。しかし今日は、道が空いているとはいえ、誰も救急車に道を譲ろうとしない。
「みんな新型を買いに行ってるからね」彼女が楽しそうに言った。
それならば仕方ない。今外出している人類は全員トライ・ライノセラス0724385068324の購入に急いでいる。それを意識したところ、彼は、対向車がまったくいないことに気づいた。それならば、と彼は単線に入り、カーブのところで緑のボルボを完全に対向車線にはみ出して追い越す。
「ちょっと、荒くなるかも!」彼は叫んだ。
彼女はトライ・ライノセラス0724385068323に夢中で聞いていない。
「んー」彼女がいった。「煙草吸ってもいい?」
「救急車のなかだぞ!」
赤信号で停車している白のレクサスと黒のベンツ・ゲレンデをまとめて抜き去る。彼らにもまだ信号を守るだけのモラルはあるのだ。
オレンジズ・アンド・レモンズ本社はこの都市の郊外にあり、その建物はなだらかな丘を少し上ったところにある。国道には本社の存在を示す非常に大きな看板が掲げられており、社員や買い物客はそこで分岐して丘の方向へと進む。そこからはほとんどその会社専用の道といっていい。途中、川を渡ると、そこより先はかなり急なカーブとなっている。そのあとはただ本社の建物までまっすぐな道が続いているだけである。
彼らにとって重要なのはその細い道への分岐点をすぎるときにトップでいることだ。そうすれば、そこから先で詰まることはなく、無事に発売時間には店舗にたどり着けるという算段だ。
「見えたぞ」彼が興奮していった。「あれが先頭集団だ!」
本社へと続く分岐点がある最後の大通り、彼は遠くに数台の車の群れを発見した。彼の計算では、分岐点にはいるまでにそれらを全て追い抜くことができるはずだった。先頭集団の群れは常識的な速度で走っており、それを抜かすのはたやすいことだ。
彼はちらりと時計を確認した。あと十分はある。分岐点にさえ先頭で突入できれば、あとは時間の心配をする必要はない。彼はサイレンを鳴らしたまま本社の方向へ突入するのは不審であることに気づき、消灯した。大通りから赤いライトが消えた。
ところがその瞬間、先頭集団の中から一台が速度を上げて他の車を引き離していった。サイレンを鳴らしながら走っている車が背後にいなくなったことにより、心理的な抑制が解放されたとみえる。
「まずい」
彼は彼女のほうを見た。彼女は吸殻をダッシュボードに押し付けているところだった。彼女も彼のほうを見た。
「がんばって?」彼女はほほえんで言った。その日見せた最初の——すくなくとも本物の——笑顔だった。
それを見て、彼は思う。こうなればどうなってもかまうものか。
彼は再びサイレンを点灯し、二位集団を追い越すと、先頭を追撃する体制にはいった。しかし先頭車両はもう分岐点に到達し、オレンジズ・アンド・レモンズ社の専用道路に差し掛かっていた。先頭がはっきりと見えた。青いブガッティ。それはこのあたりではめったにお目にかかれない高級スポーツカーだった。
ブガッティから数十秒遅れて彼も分岐点に到着した。この単線であのブガッティを追い越すしかない。背中は見えている。
ブガッティはカーブでさすがに減速しているとみえた。こうなればできるだけスピードを殺さずにカーブのなかでブガッティの背後にピッタリとくっつき、最後の直線で勝負するしかない。いつもは市民に道を譲ってもらう救急車とはいえども、車両としての性能で最高級のスポーツカーに勝ち目があるとは思えない。それでも他に方法はない。
彼はカーブをコースアウトぎりぎりのスピードで進み、青のブガッティに接近した。
ブガッティの運転席の男が、こちらをちらりと確認した。やや怯えたような表情に見えた。むりもない。通常サイレンを鳴らしている緊急車両に追われるのは犯罪者のみである。しかも一度サイレンを止めて再度鳴らし始めた奇行の救急車に追われるのだから、パトカーに追われるよりも余程怖いのは当然である。
彼はカーブの外側いっぱいを砂を巻き上げながら走った。タイヤのゴムが砂を踏む感触が足元に伝わる。
あと少しで最後の直線だ。
ブガッティのエンジン音が一段と高くなったのが聞こえた。それをきいて彼は、踵ごと車の床にめり込ませんばかりの勢いでアクセルを踏み込む。
そのとき。救急車の駆動部分から足を通って上半身に至るまで、全てが一体化されたような感覚がはしった。彼は、鳥が当然自分の一部として翼を広げ、空気を下に押し出して羽ばたくように、車両を体の延長部分でもあるような、自然な動きをもって支配した。アクセルを限界まで踏み込んだまま、ハンドルを一ミリの単位でどのように動かせば最も効率よく進むのか、彼は本能的に理解した。ありあまる推進機能を持ちながら、あくまでひとりのドライバーでしかないブガッティの運転手との差は、そこにあった。彼はしんから、完全に、車というものを理解したのだ。
そのまま、ブガッティを抜き去った。ブガッティのドライバーが、信じられない、と言った顔をしているのがミラーに映る。
「すごい!」
彼女は興奮した面持ちで、この一部始終をトライ・ライノセラス0724385068323で動画に収めている。おそらく彼女が旧式モデルで撮影する最後の動画だ。しかし心配はいらない、トライ・ライノセラスシリーズではワンタッチで全てのデータを次世代機に転送できるから。そうして今日のことは、彼女の子孫に永久に語り継がれる伝説となるだろう。