何か言われた気がした。僕はイヤホンを取って隣に座る女性を見た。
「あ、すみません。それガジュマルですか」
「はい」僕は話しかけられたことに驚いて、答えた。
最終電車はここから終点まで止まらない。ひとつ前の駅で乗客は大量に降りていった。僕とその女性だけが隣同士残った。ここにきて座席の間をあからさまに空けるのはなんだか遠慮のない気がして、おそらく僕たちは互いにそう感じて、終点まで隣同士のままであった。僕は窺うように、向かいの窓ガラスに映った隣の女性の様子を何度か盗み見た。どこを走っているやらわからない、光のない町の中だった。僕はさっきまで、最近買ったジェイミー・アイザックのアルバムを聞いていた。深夜と相性が良かった。
「わたし、沖縄出身なんですけど」僕が膝の上にのせている、ビニール袋に入った小さな鉢植えを見ながら、その女性が言った。「ガジュマルってすごく大きくなるんですよ。小さいころよく木に登って遊んでました」
「そうなんですか」僕はどう答えたものか迷った。「それくらい大きくなるにはあと何年かかるでしょうね」と言って笑った。
そのとき僕は、このガジュマルが登れるほどの大木になるまでの時間をイメージした。十年だろうか、二十年だろうか、僕が生まれてから現在に至るまでをはるかに凌駕するような年月である可能性もあった。そう考えると不思議な寂しさがあった。それはもう取り戻せない過去を考えるときの寂しさに似ていた。矢印が前向きであれ、後ろ向きであれ、掬おうとすれば何か大切なものがいくつでも零れ落ちてしまいそうなスケールの時間感覚だった。
「何年もかかるでしょうね。この小さい鉢植えが」と女性が言った。「そんなに大きくなっていくことを想像したら、楽しくないですか」
「僕は寂しいと思ってしまいました」
「え、どういうことですか」
「なんか、気が遠い話だな、と思って」
「寂しいですか」とその女性が笑った。
彼女も僕と同じように、会社帰りのようだった。地味な紺色のワンピースと茶色いスエードのローファーを身に着けていた。その組み合わせを見て僕は季節が秋に進みつつあることを感じた。それから僕は一年中履いている自分の黒いビジネスシューズを見た。僕が繰り返し同じような日々を送っている間に、来る人のところに季節は移ろう。
「もしかしたら」と僕は言った。「毎日代り映えのしない生活を送っているから、そう感じるのかも」
「わたしもそうですよ。でも何十年も先の生活のことを考えると、それだけで楽しくなってくるんです。将来は絶対に沖縄に帰って、また庭に大きなガジュマルの木がある家で暮らそうって。なんかそういうのって、ありませんか」
「うーん」と僕は考えた。考えれば考えるほど、僕は永遠に、今送っている日常に閉じ込められているような気がした。ちょうどこの車両がそうであるように、窓から遠くを見ようとしてもこぢんまりとした現状が跳ね返ってくるだけだった。映り込んだ自らの姿の向こうには、なんだかわからない黒い影が過去から未来に向かってびゅんびゅんと通り過ぎていった。「あまりイメージ沸かないですね」そう言って、つまらないな、と苦笑いした。
午前一時を少し回り、電車は家の最寄り駅に到着した。僕は「ではまた」という感じで軽く会釈して、女性を先に行かせ、灰色のホームに降りた。他の車両をすべて含めても乗客は僕たち二人だけだったようだ。改札までの道のりに女性と、少し離れて歩く僕の足音が響いた。女性が自動改札機を抜けるときの、ピッ、という音がやけに大きく聞こえた。
僕は駅前のコンビニへと向かったが、女性もどうやらそちらへ向かっているようだった。後をつけているようで後ろめたく、ゆっくり歩きながら女性との間隔を少し、広げた。駅前の通りには歩いている人は見えず、車も一台も通らなかった。都心から遠く離れた郊外とはいえ、終電のまだ走っている時間にしてはとても珍しいことだった。
コンビニの入り口まで来ると、さきほどの女性が緑茶のペットボトルを持ち、迷ったようすでレジの前に立っているのが見えた。僕が近づいていくと自動ドアがびっくりするほど大きな音を立てて開いた。ドアを通ると僕も異変に気付いた。店内放送が流れておらず、店にはかわりに業務用冷蔵庫か冷凍庫だかのジーッという音が充満していた。店員の居る気配もない。
「閉まってるんですかね?」と女性が聞いた。「まさか、と思いますけど」
「おかしいですね。ドアは開いてますし」
僕は、すみません、とレジの奥に向かって呼びかけてみた。返事はない。しかし、セルフレジの液晶画面が通常通りなのを見つけた。
「セルフレジは使えそうですよ」と僕はその女性に教えた。
女性は困ったように言った。「わたし、電子決済とか使ったことないんですよね。いつも現金しか持ち歩いてなくて。ちょっと飲み物だけ、近くの自販機で買ってきます」
「よかったら一緒に払いますよ」押しつけがましいかな、と心配しながら言った。
「いいですか、すみません。わたしの分は現金でお渡しするので……」
僕は一度ガジュマルの袋をコンビニの床に置いた。そして手早く商品を選んで、彼女から緑茶のペットボトルを受け取った。それからセルフレジに商品を登録し、電子決済を選択して支払いを行おうとした。
「あれ」
いつものようにスマートフォンを決済機にかざしても反応しない。
「圏外?」
画面の右上に小さく”圏外”という表示があった。
「携帯、圏外になってません?」と僕は彼女に聞いた。
彼女もスマートフォンを取り出し、画面を確認して言った。「ほんとだ。おかしいですね」
僕はいったん店の外に出て、圏外の表記が変わらないことを確認した。
それから彼女が思い出したようにSuicaを試したが、使えなかった。僕は滅多に使わないクレジットカードを使ってみたが、無理だった。僕たちはあきらめ、商品をそれぞれの棚に戻した。店員はいつまでたっても出てこなかった。
店の外に出た。相変わらず人も車も見えなかった。建物に反射してくる遠くの車の音さえないことに、僕は気がついた。それが異様な静けさを造り出していたのだ。
「なんか気味が悪いですね」と僕が言った。
「何が起きてるんでしょう。帰ったらツイッターで調べてみようかな」彼女はあまり意に介していないような様子だった。僕はもう一度携帯を見てみた。相変わらず圏外だった。バッテリー残量を示すピクトも赤色に変化していた。
僕たちは並んで歩いた。何度か同じ角を曲がると、もしかして、と思った。すぐに僕と彼女は同じマンションに住んでいるということが分かった。僕たちは大通りに面した、巨大なビルとビルの間で窮屈に押しつぶされるようにして建つマンションの入り口にたどり着き、立ち止まった。僕はわざと驚いたような顔をしてみせた。
「なんだかそんな気がしてました」と彼女が言った。僕たちはエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。
「何階ですか?」と僕は聞いた。
「2階です」
「僕は3階なんです。いつも深夜、うるさくしてたらすみません」
「いえ、全然そんなことないですよ。私さっさと寝ちゃってどうせ気づかないし」と彼女は笑った。
「では、おやすみなさい」と僕たちは言い合った。僕は彼女を見送ったあと、そのまま3階に上がり、自分の部屋に入った。
電灯をつけ、ガジュマルの入った袋をテーブルの上に置いた。スマートフォンを再び取り出し、Wi-Fiに接続されているか確認しようとした。しかし充電切れで電源が完全に落ちてしまっていた。僕はふたたび起動できる状態になるまで充電を待つことももどかしく、バッグを開いてノートパソコンを取り出した。インターネットに接続しようとしたが、自宅のネットワークを認識しない。パソコンの画面に表示された時刻が午前一時十七分を表示していた。僕は腕時計を確認した。同様の時刻だった。終電から考えると、もう少し深い時間になっているような気がして不自然だった。僕は他の手段で時刻を確認しようとしたが、部屋にはテレビもなく、他の時計もなかった。
僕はあきらめて、ガジュマルの鉢を袋から取り出した。植物として釣り合いが取れていないような、奇妙な見え方をした。葉は、まるで別個体である幹を宿主として生命力を吸い上げているようだった。花屋の店頭で見たときには、その緑の鮮烈さに気付かなかった。テーブルの中央に置くとけばけばしくさえ感じた。
「ガジュマルってすごく大きくなるんですよ。小さいころよく木に登って遊んでました」と、彼女は言った。「この小さい鉢植えが、そんなに大きくなっていくことを想像したら、楽しくないですか」
もう一度靴を履いた。急いで部屋を出て、エレベーターに乗り、エントランスに戻った。彼女はもう”圏外”ではないのかもしれないと考えると怖くなってきた。夜の変な隙間から抜け出せなくなっているのが自分だけではないことを確かめたかった。話し相手が必要だ。彼女もそうであってくれ、と祈るような気持ちだった。僕はエントランスの端にある小さなソファに深く座り、待った。
しかし、どれだけ経っても彼女は出てこなかった。僕はただ座っていた。誰も通りかからない。途中腕時計を何度か見た。いつ見ても短針は1をやや過ぎたところにあり、長針は15と20のちょうど間にあった。時計はもう止まってしまったのだろう。僕は途中から見るのをやめてしまった。
僕はあくびをした。彼女はもう寝たのだろうかと考えた。彼女には朝が来て、またあの電車で出勤し、それを徐々に変化させながら繰り返して、数十年後に沖縄の大きな庭のある一軒家で過ごすだろう。映画のような他人の人生を想像するのは容易い。僕は部屋に置き去りにしてきた小さな鉢植えのガジュマルとともに、永遠にこの深夜一時に閉じ込められている。