著者: 鈴木レイヤ @reiyahead
パチンコ屋の前に座り込んで1ミリの煙草を吸っていたアヤネの爪には彼氏の成人式のために大金を払って塗ったネイルが残ったままだった――駅舎跡の二階にあるメイド喫茶でバイトをやっている女が厭世的ジュビナイル顔で階段を下りてきて、自転車に乗ってどこかへ行った。大概はコンビニかどこかへお使いを頼まれたのだろう。
アヤネのバイト先は一階の中華料理店であった――二階のメイド喫茶の連中は愛想悪く、アヤネと喫煙所で一緒になっても会釈一つしない。そういうのでアヤネは彼女たちを心底嫌っていた。
さっき自転車で行った女はアヤネの一つ下のハルカというやつで、高校に行かず駅舎跡を根城にうろつき回っていた――これはアヤネの彼氏よりも背が高い男と付き合い、いつだって偉そうだった。アヤネは少なくとも学校へは通っており、ここへ来るのは夕方からだった。ハルカが毎日昼過ぎから店で汗くさい禿げかかりを相手にへこついて彼氏に貢いでいるのだと考え、アヤネは自分の方がまともで強い人間だと信じた。タバコが終わりかけたところに中華屋の常連客がパチンコ屋から現れた――これはいつも店で、アヤネに自分を現役の大工であることを主張していた。だが、歯の抜けた老人でおそらく毎日朝から晩までパチンコを打っており、昼と晩をアヤネの店で食っていると同僚は言った。やはり老人は年長者顔でアヤネに話しかけた、どこも高齢の人間はこのように若い女に偉そうに口を聞いた。若い女であるから舐めたような顔をしているということは承知していたが、「あのビルを作った、この店の基礎をやった」と誇らしげに語る彼を見ていると、若い人間に少しくらい偉そうにしていてもいいだろうとアヤネは考えていた。よっぽどハルカよりは偉そうにしていて構わない人間だった。まず、この老人が自分に色気を見せないということもアヤネには良かった。また、小学生の頃に死んだ祖父を思い出すようでもあった。
「こんばんわ。景気はよろしくって?」
老人はやはり今日も昔話を始めた。
「鯉が群れているのは知っているだろうが、その鯉が水面の広がるに連れて回遊を始めたので、秋になると学者が押し寄せるようになった」と老人は言った。この話は前にも聞いていたが「昔は列になって泳いだりはしなかったのですか?」とアヤネは尋ねた。老人は「ワニや大蛇が増えたのが原因で鯉が異常な行動をするようになったという話があったけれども、昔からあのあたりで泳いでいた人間は鯉がどこに向かっているかを知っていて、それでも学者なんぞが集まってきては、何でもかんでもひっくり返されてたまらんからね」と言った。そして、この店はもうすぐ潰れてしまうからミヤサカさんと話すのも今月いっぱいで無くなってしまうと言って半ばまで吸った煙草を灰皿に押し付けた。この人が丁寧に火を消している様をじっと見つめながら、近所じゃないんですか?とアヤネは老人に尋ねた。
老人は首を振った。
その次の土曜、アヤネは老人の車の後部座席に座って川沿いを走っていた。左目に広がった水面はほとんど止まっており、波の一つ一つが頂きに小さな太陽を掲げ踊らせていた。老人の隣――助手席にはハルカが座っていた。アヤネがハルカと口をきいたのは今日が初めてであった。ハルカはメイド喫茶をやめることになったと言った。祖父が送り迎えをしなくなるから、と言った。やはり老人は煙草を挟んだ右手を窓から垂らして「昔は、」と話し始めた。そうして、中途半端に話したところであのビルの工事にも行ったと言い、ハルカはどれもこれも作ったんだから一つずつ指差しても、と笑った。
ここのあたりに生まれた年長者はもれなく全員、多摩川の水位が突如上昇し始めた話をことあるごとに語った。アヤネは中華料理店のカウンター越しに毎日のように聞かされていたので、生まれる以前の出来事ではあるもののこの手の話を大概知っていた。日本中で繰り返されている日常会話なのである。
「近くに競馬場があったんだがね、大きな木が水面から突き出しており、ちょうどあのあたりで――夏になると、どういうわけか今でも匂うと…。川底で土がかき回されて、温度か風か、清水ヶ丘中に馬が走ったようになるだろう?それが好きでよく来ておったが、もう歳だからあと何度夏が来るか」
「まだ七十とちょっとでしょうが、おじいさんがそんな簡単にくたばったら誰も苦労しないわ」とハルカは携帯電話を触りながら言った。
老人がミラー越しにちらちら見ていることにアヤネは気づいていたが、目を合わせる気にはならなかった。アヤネは理不尽な馬の匂いが好きではなかった。ハルカは窓の外を見ることをせず、シートに沈んだようになっていた。彼女の普段着はメイド喫茶の制服とあまり変わったものではなかった。「おじいさんはお孫さんの店に行ったことはあるんですか」老人は煙草を吸っているためか返事をしなかった。ハルカは「一つしか変わらないのだからお孫さんだなんて大人ぶった口の聞き方をしたってダメよ。ジジイから見たら私たちは子供なんだから」
老人が連れて行こうとしている場所もやはり水没に関する土地であった。「ハルカさんはそこへ行ったことがあるのですか」
「別に敬語じゃなくてよくないですか? 利口ぶっていないで煙草も吸えばいいでしょう」
「構いませんか?」
老人は黙ってアヤネの横の窓を開けた。ぶかぶかのシャツの胸元から彼女は風を感じた。エアコンが付いていても彼女は汗ばんでいた。
車を降りて十分ほど歩いたところで老人は小舟を借りた。川幅の狭くなっているところで、清水ヶ丘のあたりと比べると波は大きかった。老人とハルカは舟を漕ぐのが上手かった。アヤネは鍔の広い麦わらを被って水を見つめていた。半透明の水の中を忙しく銀の鱗がひらめいていた。
うつらうつらしていたが急に波音が静かになったためアヤネは目を覚ました。老人とハルカは漕ぐのをやめていた。しかしボートは動いていた。アヤネは帽子の位置を直し、ハンカチで首元の汗を拭ってあたりを見渡した。ハルカが舟から身を乗り出して水中を見つめた。舟が傾き、アヤネは縁を掴んだ。老人は船頭に腰かけ煙草に火をつけた。アヤネも火をつけた。「ミヤサカさん、ご覧なさいよ。やはり鯉の群れが来ているわ」
アヤネはそっと船から静かな水面を覗いた。水は澄んでおり、黒い鯉が群れを成して進んでいた。それはゆっくり深い方へ泳いでおり舟もゆっくりそちらへ向かっていた。遠くでは水が流れていたが、ここでは一つも波がない、舟は上流へ向いて動いていた。
「ここには何があるのですか?」
老人もハルカも教えてくれなかった。舟はゆっくり上流へと流され、やがて渦を描くように回り、やがて動かなくなった。そこからは魚は一匹も見えなかった。
「魚はここへ向かっているのですか?」とアヤネは尋ね、煙草を放った。老人も放った。水面でしばらく上下したが、引きずり込まれるように沈み、二本の吸い殻は螺旋のように巻きながら沈んでいった。「ここはただの入り口なんですよ」とハルカは言った。そうして二人は櫂をとってまた漕ぎ出した。アヤネは水を飲み、時計を見た。
小舟は川の向こう岸へと進んでゆき、急な水面の上昇に削られて露出した岩の多い岸に沿って進んだ。際の方では、枯れ葉やゴミが浮かんでおり、死んだ鯉が浮かんでいるところには蝿がたかっていた。このへんで川はとっくりのようになっており、複数の小島を迂回しながら複数の急流を作って海を目指していた。どこか巨大な湖を思わせる多摩川では珍しく、ここは川らしい川だった。老人曰く――現在の流路は本当に気が遠くなるくらい昔に水が通っていたところで、子供の頃には家がいくらでもあった。現に小島を覆うようにコンクリートの廃墟が在った。急流に揺られ小舟は岩と岩の間を進み、岸壁に沿いながら行くと小さな支流を見つけそこへ入り込んだ。この岸は奥の高速道路まで林になっていた。まず人が踏み込むような場所ではなく、無数のコンクリートの廃墟に見下ろされて進んだ――それらの建造物はほとんどが直方体で窓は少なかった。支流の岸も崩れかかったコンクリートだった。アヤネの視線の先には壊れた古い虫籠が在った。頭上の葉が風にゆられる音、鳥の音、それからゆっくり櫂が水をかき分ける音だけが響いていた。水中を多数の鯉が本流へ向かって泳いでいた。
十分ほど漕ぎ進めると、水しぶきが聞こえ出したのでアヤネは岸から川の上流へと視線を変えた。支流の突き当たりは広い池ようになっていた。奥の崖には滝があり、激しい水音はその向こうから聞こえていた。向こうから?とアヤネは目を細めた。水中で鯉は依然本流へ向かって泳いでおり、水源に留まろうとしているものはいなかった。水飛沫が顔にあたりはじめて、ようやくアヤネは違和感のわけを知った。滝は逆流していた。近づくにつれてその重力に反した現象は視界の中で正当化され始めた。滝壺の水は上がっていた、その中を無数の鯉が体をくねらせ上がろうとしていた――そこにだけ上昇する強風が吹いているよう水塊が軽く、どこまでも押し上げられそうで、しかし全てはやがて力を失い崖の向こうへ降り注いだ。また、湧き上がる中でもこちらの方へ帰ってくる水も在り、塊の一部が溶け出しているようだった。この形を見た今ではアヤネもこれを滝と形容しようとは思わなかった。老人は小舟を逆さの滝の脇へと回した。向こう側を目指す鯉の鱗から霧が広がっていた。無数の鯉が水塊から弾き出され、水面に叩きつけられた。「この向こうはどうなっているのかしら?」アヤネは水滴をぬぐい尋ねた。と、一匹の太った鯉が彼女の前に落ち、舟底で大きな音を立てて跳ねた。