都内から車で三時間もかかるここまでやって来たのは、羊水のなかにもどるためだった。
このあたりは山のかなり上の方まで舗装がされていたので、車でやってくるのにちょうどよく、川の流れに沿って、ゆるやかな傾斜が続いていた。木々の切れ間にくると、私は道路の上から川のほうを見下ろした。向こう岸は黒く翳っていたが、細く水が流れている部分はその影響下にはなく、大きな白い岩によってささえられていた。濡れていない部分は太陽の光を反射して光った。足を踏み入れると、体温ほどに温かく、少しばかり足を沈めると、途端に締め付けてくるような冷たさを覚える、というようなことを、私は想像した。
車とともに、太陽光をさえぎる、木々の影響下から出たり入ったりした。フロントガラスにはたくさんの葉の形に影が作られた。それらが、ゆっくりと後ろにすべってゆき、また新しい葉が影をつくった。葉が私に太陽光線をゆずると、扇形に水垢が目立った。
車は、どこか人目につかないところに、乗りすてていこうと思った。
私はハンドルを切り少しずつ登っていきながら、思い出していた。あの頃はもっとゆっくりと登った。脇にはつねに誰かがいた。それは日によってかわった。麓のほうに住んでいる友達はたくさんいた——そのうちの数人を思い出す事ができる。上の方に行くにつれて、住宅も少なくなっていき、そして一番上には私の家がぽつりと、あった。
「どうして、みんなよりも学校が遠いの」
「それはお父さんに聞いてみなさいよ」
母親は、その質問をするたびに、少し笑いながら言った。冷たい色彩を、私は見逃していなかった。あれは、どういう意味だったのだろうか。
父親がなんの仕事をしているかすら、私は知らなかった。小学校に入る前、最後の記憶では、父親は私をよく風呂に入れていた。父親はいつも体を洗う前に湯船に浸かり、そうすると、灰と汗が混じったような、黒く濁ったあくのようなものが、父親の身体から流れ出た。たまに父親の帰りが遅く、母親が私を風呂に入れるときがあると、私はひそかに喜んだものだった。次の日には、またよごれた羊水にもどった。
私は山道の脇に、車を停められそうな空間を発見した。そこは、ひときわ生い茂った葉に隠された、湿った岩の前だった。車を降りて近くによってみると、ごくかすかに、水が流れていることがわかった。光沢のある苔が密生していた。岩の上の方から落ちてくる水滴を受け止めるたびに、それらははずんで揺れた。私は指で苔に触れ、しずくがはずむのを妨害した。強制的に進路を変えられた水滴は、私の人差し指を伝って、指の付け根の関節をじわりと濡らし、地面に落ちた。
私は車のキーをポケットに入れたまま、ゆるやかな勾配を進んだ。真夏のように暑かった。私は、ズボンの太腿が内側から湿っていくのを感じた。中の金属を不快に感じた。
しばらくいくと、道は林道の方に分岐した。私は杉がまっすぐに立ち並ぶ方向に折れた。そこから先は舗装がなされておらず、足元は柔らかさを感じた。川の方向から離れるにともなって、水音は少しずつ、くぐもって抵抗したが、やがて離れていった。そして完全に聞こえなくなってしまった。
「はい、いち、に、さん、」
笛の音がして、私は顔を前に向けたまま、軽くジャンプして水面下に潜った。甲高いホイッスルの音が途中で不自然に切れ、低い唸り声に変わった。プールの中の水がどこかに流れていく音が、ごぼごぼと聞こえた。水泳帽からはみ出した髪の毛が、ふわりと広がるのを感じた。水泳眼鏡越しに、底の黒いラインが歪んでいくのが見えた。もう少し深く潜ってみようと思った。足を曲げて精一杯体を沈めようとすると、途端に耳の中と目の周りを、水が容赦なく圧迫する。底の方に近づくにつれて、やはり冷たい。
母親が泳げない私のことを心配して、車で往復二時間の送迎をしてまでスイミングスクールに通わせたのは、無意識のうちに、川の近くで生活していたことの影響があったのだろうか。それにしても、町で育った子供の中にぽつりと異分子として紛れ込んだ私は、どうにも周りと波長が合わなかった。私はレッスンごとに周りの誰とも話さず、ただ与えられたメニューをこなして、そそくさと母親の元へと引き上げた。
スイミングスクールにはいろいろな子供がいた。私はいちばん程度の低いコースで、そのコースではひとまず水に慣れるためのメニューが準備してあった。上級コースの子が隣のレーンで悠々と泳ぐ中で、私と落ちこぼれたちは、水に顔をつけたり、笛の合図で水の中に沈む練習をするところから始めた。落ちこぼれコースの児童のなかにも、すぐに水に適合し、中級、上級とすぐに進級していく子たちもいた。日を追うごとにひとり、ふたりと仲間が減っていった。
それでも、プールに溜まった、落ち着いた生あたたかい水が私は好きだった。いつも見ている川の流れとは違う。レッスンの前後には着替えと温水シャワーの時間があった。どんなに落ちこぼれようとも、シャワーの時間だけはどの児童も平等に体を濡らし、体を清めた。それはあの静的な水に浸かるための儀式なのだ。
一人のコーチが何十人もの児童を受け持っていたので、監視の目は行き届いているとはいえなかった。私はよくコーチの目を盗んで、悠々と泳ぐ子供たちを観察した。上級コースの平泳ぎを眺めるのが、特に好きだった。バタ足で落ち着いた水を逆立てるのは、とてもよくないことのような気がした。流れのない水には、あの優美なかえる脚の動きが、よく似合うと思った。
落ちこぼれコースの人数が減るにつれて、コーチの目は厳しく注がれるようになった。私のようにいつまで経っても上達しない、上達しようとしない児童など、真っ先に刈り取るべき雑草のような存在だった。日を追うごとに、私は落ちこぼれ担当コーチの焦りを手に取るように感じるようになってきた。容赦ない声がとぶようになった。以前のように、上級コースを眺めてぼんやりすることも、もはやできなくなった。私は、半年も経たずにそのスイミングスクールをやめた。結局、あれほどまでに動きのないあたたかな水には、その後二度と出会うことはなかった。
下生えは濃くなり、林道はだんだんと野生の道に近づいていった。私はこの先に羊水が待っているという期待をした。
私は遠くの人影に気づいた。この山に入って初めての他人だった。同じような杉の中から、ある一本の前にたたずみ、木をよく観察しているように見えた。とても背が高かったので、近づくまでそれが女性であることがわからなかった。アウトドア用のカーキのジャケットは、首元まできっちりとファスナーが閉められており、あごひものついた小さな帽子をかぶっていた。女性は私の足音に気づき、こちらを向いた。顔には驚きが浮かんでいた——あちらからしても、私はこの山ではじめての他人だっただろうから。しかしそれよりも私は、その女性が振り向くときの身体の動きが甚だしく優美であったことに気を取られた。それは私に、あの頃夢中で眺めていた熟達した平泳ぎの感じを与えた。
「探してる水は、この先にありますよ」
何よりも先に、女性はそういった。不思議な言い方だった。見るからに私よりかなり若いにもかかわらず、私に情報を与えようとしているというよりは、むしろ諭すような調子に聞こえた。そしてどこか聞いたことのある話しぶりに思えた。私は自分が何かみっともないことをしてしまったような気がした。あるいは、幼稚な空想を言い当てられたときのような、きまりの悪さを感じた。
その女性は、まるで何年も世間と関わっていないような、禁欲的な生活を感じさせるような顔立ちをしていた。目の印象などはとても柔らかいのに、全体として見ると険しさを感じさせた。それは、昔中東地域を一人で旅していた頃に出会ったバックパッカーたちによく見られた印象に似ていた。煮詰められ水分を飛ばされたワインを思わせるような厳しさだった。
「ありがとうございます」
私は、威厳を失うまいとして——そんなものがあったならば——できるだけ落ち着いて言った。私は女性の脇を通り過ぎ、さらに山の奥深くへと、進んでいこうとした。
その女性は、ちょっと小馬鹿にしたような感じで、言った。
「ついてきてほしいなら、そう言えばいいのに」
私は、早々の自立を望む母親を敏感に感じ取っていた。小さい頃に父親と別れ別れになったので、父親が担うであろう役割を、私の家庭の場合は母親が担っていた。いつも一緒に外出するごとに、母親は私とつきっきりになることを避けようとした。
臆病な子供だった。とはいえ、同時に、母親の期待になんとしてでも答えようとする子供でもあった。私は母親の顔色を伺った。ここでは様式上、母親は私を突き放そうとしているのだ。そうやって、一時母親の元を離れるそぶりを見せれば、あちらの方で心変わりして、結局はついてきてくれることを確信していた。
私はその女性の脇を通りすぎ、充分に離れたあとで、来た道を振り返った。しかしその女性は、私のことを待ってはいなかった。振り返ってみると、自分の通ってきた道こそがあたたかく照らされていることに気がついた。それは翳った山中から振り返ってみないと決してわからない明るさだった。
もしかしたら、生命を育むプールはこの先に存在していないのかもしれなかった。私は、あの女性から必要なものごとを聞きそびれてしまったことを悔やんだ。その水は、どのようなかたちで存在していたのだろうか？ それは木の間にあるのだろうか。洞窟の中にあるのだろうか。空気中に、霧のような形で存在しているのだろうか。
陽が少し斜めに照ってきた。私は足早になった。積もった落ち葉がばらばらになる音が聞こえた。そこは真冬のように乾いていた。