パンダのタトゥーを彫ったあいつに会いに、俺は中央線に乗る。車窓から高円寺のアーケードが見える。俺が上京して高円寺に住み始めたのが遠い昔のことのように感じられる。高円寺という街は、確かにどんな奴でも受け入れる抱擁感のようなものを持ち合わせているのだが、俺はどちらかというと、その有り余るエネルギーを日々浴びることが苦痛でどうしようもなかった。今ではだいぶこの街に慣れたとはいえ、まだ時折そう感じることがある。夢を追う若者の街だという感じがする。早々に安定した仕事に就き、冒険とは程遠い日々を送る俺は、この町全体から白い目で見られているような気が、どうしてもしてしまう。どちらかというと、勢い余ってパンダのタトゥーなど入れてしまうあいつの方が、この街に住むのにふさわしい気がする。
あいつは——そう、あいつはずっと変わった奴だった。俺はそれを時には羨望の眼差しで見ていたし、時には気恥ずかしいような気持ちで眺めていた。地方の高校ではずっと一緒だった。俺は運動部に所属し、あいつは軽音楽部。俺はよく喋り、あいつは無口だった。それでもあいつには、人に好かれる才能のようなものがあった。俺たち二人が参加している会話でも、いつの間にか流れを支配している、そう感じる瞬間が何度もあった。あいつが要所で一言、二言何か言えば、一瞬でそれは顕在化した。それはカリスマ性と呼べるのだろう。結局のところ、あいつは生まれ持ってそれを体得していたのだ。俺はC-3POで、あいつはR2-D2。
無口なR2が豹変するのがステージ上だった。あいつは何かが乗り移ったかのように雄弁になった。ギターを持ってマイクに向かい、こちらが恥ずかしくなるような勢いでベラベラと喋った。正直、あいつの演奏より曲間に喋る姿の方が俺にとっては印象的だったし、高校近くにあったライブハウスのことを思い出した時に脳裏に浮かぶのはそんな姿ばかりだ。あいつは音楽を通して本当に世界を平和にするつもりだったらしい。
阿佐ヶ谷を過ぎ、荻窪を過ぎた。
あいつは俺よりも早くに上京した。俺は地方の国立大学に進学したが、あいつは本格的にバンド活動を始めたのだ。俺は時々東京に遊びに行っては、あいつのライブを見た。あいつの技術が進歩していくさまを見届けていた。そして曲間の喋りは相変わらずだった。数人の熱狂的な女性ファンが陶酔したようにそれを見つめるのを、俺は後ろから冷めた目で見ていた。段々とライブを見にいく頻度も少なくなっていった。あいつはその界隈でたくさんの友達と、一握りのファンを作り、俺は地方の大学で少しの友達を作った。
西荻窪を過ぎた。
俺はスマホを取り出し、あいつとのメッセージの画面を開いた。なぜ、今になってあいつが俺と会おうと思ったのかはわからない。
「久しぶり、元気か」
なんの変哲もないメッセージから今日の物語は始まったのだ。あいつは続けて、今吉祥寺に住んでいること、バンド活動は相変わらず続けていることを報告した。そして、今度の日曜日に予定が空いていたら昼飯でも食わないかと誘った。俺は承諾した。
「そういえば」あいつは最後に言った。「最近人生で初めてタトゥー彫った」
「マジで?」とはいえ、そんなに驚くことでもなかった。あいつはサラリーマンになった友達ではなく、バンドマンなのだ。タトゥーの一つや二つ、入っていてもおかしくないだろう。
「なんの?」
「パンダ」
パンダ?
「なんで?」
「いや、色々あってさ。来てくれた時に話すよ」あいつはそう言って会話を終わった。
電車がスピードを落とし始めた。俺はスマホをポケットにしまった。車窓から見える映画館の広告がだんだんゆっくりになり、止まった。今月はあの名作と、あの名作を上映するらしい。あいつの人生がもし映画なら、俺の物語よりもよっぽど面白いだろうか、と俺は思った。
北口のロータリーにあいつがいた。タトゥーは見えるところには入っていないようだ。
「そんなに変わってないな」俺を見るなり、あいつが笑いながら言った。
「そりゃあ、ね……」と俺は言った。お前もだろ、とは言わなかった。あいつは数年のバンド活動を通して明らかに変わっていた。人を惹きつけるような雰囲気がさらに強化され、顔にはごく幸せそうな表情が刻みつけられているのを、俺は発見した。正直に言って、俺は心のどこかでは、あいつに悪い方向に変わっていて欲しかったのだろう。夢を追っている人間はそれだけ眩し過ぎた。すごいね、でもやっぱり現実は厳しいでしょう?とでも言わんばかりに、俺の方がいかに満ち足りた人生を送っているかを感じて欲しかったのだと思う。
「バンドは順調なん」俺は間抜けな質問をした。まるで保護者のような口調だ。本当はパンダのタトゥーのことについて聞きたくて仕方がなかったが、とりあえずは久しぶりに再開した友人的な会話を一通りするのが礼儀かと思ったのだ。世の中にたくさんタトゥーの種類がある中、なぜよりによってパンダなのか?普通バンド名とか、わからんが、十字架とか、そういうやつを入れるのではないのか。それは動物園の案内表示についている写真のようなリアルなパンダなのか?それともデフォルメされたキャラクターチックなものなのか?笹は咥えているのか、咥えていないのか?そしてそれはいったい身体のどこに入っている?あいつが最近の活動について説明している間、俺はなかば上の空だった。
「……で、お前はどんな感じなん」あいつも間抜けに聞いた。曖昧な質問だ。俺は我に帰り、就職した会社が扱っているものや、自分がどのようなことをしているのかを、ざっくりと説明した。
俺たちは話し続け、昼食をとる場所を探しながら歩いた。途中アーケードで、新興宗教の勧誘に引っかかった。かなりしつこく話しかけられて無視できなかった。俺たちは話を聞きながら、切れ目でなんとか抜け出そうとしたが、相手が矢継ぎ早に話すので解放されるのにかなりの時間を要した。
「最近多いよな、ああいうの。俺はこの前家に来たわ、無視しても何度もやってきて。どうにか規制されんものかな」と俺は言った。
「まあ、な……」とあいつは言葉を濁した。彼は世界を平和にするために音楽をやっているのだから、少なからず宗教家と共鳴するところがあるのだろう。忘れていた。俺は、そういう求心的な生き方をすることを悪といっているわけじゃない。それをなんとか伝えたいと思った。
「世界平和を目指すとか、そういうのが嫌なんじゃないんだよな、なんというか、ああいう詐欺みたいなことが許せないだけで」俺は弁解するように言った。
「全部が全部、そうじゃないよな」あいつは自分を納得させるように言った。
俺たちは人気のラーメン屋に行き、少し並んで、ラーメンを食べた。ラーメン屋で、そろそろいいだろうと、俺はタトゥーの話を持ち出した。
「見せてよ」と俺は言った。
あいつは嫌がった。背中に入っている、という。俺は笑った。
「なんでパンダなん」
「……可愛いやろ?」とあいつは妙に間を開けて言った。俺はそれがおかしかった。こいつ、自分でもはっきりした理由のないくせに。だいぶ思い切ったことをするな、と、俺は改めて、その無鉄砲さというか、衝動で一生消えないようなことをする勇気が羨ましくもあった。
結局、パンダのタトゥーは見せてもらえなかったし、あいつがどういう理由でそれを入れたのもはっきりとしないまま、あいつと別れ、俺はまた中央線に乗り、高円寺の自宅に戻った。家に向かう道で三人の楽器を背負った若者とすれ違った。俺はあいつのことを思い出し、そして、自分のことを思った。こんなにつまらない人間が高円寺を歩いていてはいけないような気がした。最近そういった後ろ暗さのようなものはすっかり薄れていたはずなのに、久しぶりにそれを強く感じて不快に思った。
自室に帰るなりパソコンを開いた。あいつのバンドを聞き直してみようと思ったのだ。なんというバンド名だったっけ?今日も話題にのぼったはずだが、横文字のよくわからん単語が並んだその名前を俺は忘れてしまっていた。
個人名で検索するか。
俺はあいつの名前を検索ボックスに入力し、エンターキーを押した。なんとかかんとかいうバンドの公式サイトや、関連する動画が出てきた。そして五番目くらいに、あいつのFacebookがでてきた。
そういえば、と俺は思った。俺はFacebookを使い始めたのは最近で、あいつと交換していなかったな。
俺はそのページを開いた。
そこは、シェアされたリンクでいっぱいに埋め尽くされていた。それはある新興宗教団体と、はっきりとはわからないが、それに繋がりがありそうな政党のポストだった。現在の政権に対する陰謀論があった。大手企業がテクノロジーを通じて人民を支配しようとしている、という”発見”があった。彼らが薦める商品の紹介ページと、その購入先のリンクがあった。それぞれの投稿には、約100前後の”いいね”と、賛同のコメントがいくつもついていた。どれも過激な物言いだった。
俺はあいつがシェアしている投稿のプロフィールページに飛んでみた。アイコン画像はその宗教団体の名前になっており、そのヘッダー画像にはどぎつい黄色のバックグラウンドに、パンダのキャラクターが描かれていた。
これだったんだな。
あいつの個人ページに戻り、下までスクロールすると、あいつがそのシェアを始めたのが今からちょうど一ヶ月ほど前だということがわかった。シェアされた大量の投稿は、ここ最近のことだったのだ。
ページを閉じた。俺は鼻から大きく息を吐いた。一ヶ月前に何があったかはわからないが、あいつはこの団体の虜になってしまった。バンド活動が伸び悩み、憔悴していたのだろうか。人を惹きつける力があったあいつが、より大きい力に共鳴したのだろうか。それとも、そんなことは関係なく、この団体の理念に共感したのだろうか。
今日俺を誘ったのも、もしかしたらそういうことだったのかもしれない。俺が宗教の勧誘を無下にしているのを見て、こいつは誘っても無駄だと諦めたのだろう。
俺は過去のあいつの演奏を見たくなって、そのバンドの、俺が見に行っていた時代の映像を探し出し、リンクを開いた。久しぶりに見た画面の中のあいつよりは、確かに今日会ったあいつの方が幸せそうな顔をしていたことは間違いない。次に最新の動画を見た。比べ物にならないくらいファンが増えている。それに比例するように、曲間のMCも長くなっている。ちらほらと、穏やかでない単語が聞こえる。バンド全員がこの団体にかかわるようになったのだろうか。今後このバンドが大きくなっていったら、団体の応援役的な位置付けをされていくのだろうか。
どうして、と俺は思った。あの頃に戻って未来をみると大概汚い。
また一人、友達が減った。俺は心の中のアルバムの写真を一つ、剥がして放った。あるいは、写真の上に大きくバツをつけた。ページをパラパラとめくってみると、もう色褪せて見えなくなってしまった人ばかりだ。
あいつにまた連絡して、”こちら側の”世界に引き戻してくる義理はない。何年も遠ざかっていた友人だ。それに、あいつは今の方が余程幸せそうだったではないか。俺にはそれを笑うことなどできない。仮に変なパンダのタトゥーを笑うことはできるにしても。
俺は家を出て、近所の公園に向かった。もう日は沈みかかっていた。夕日が住宅街の屋根と壁を柔らかく照らしている。なんだか世界から取り残されてしまったような気がした。自分もこの街の一部であることを確認したかった。
くるくると回る、大きな白い円盤がありました。まずはじめに、そこには俺がいました。俺が「光あれ」というと、円盤は山に囲われ、家ができました。家の中心には俺、そして家族がいました。家を出ると何人かの友達がそこにいました。俺たちは共に話し、遊びました。しばらくすると、ひとり、ふたりと、友達は山の向こうへ歩いていってしまいます。俺たちはそいつらに別れを告げ、時には告げず、遊び続けました。
やがてみんな、山の向こうへ歩いていってしまいました。しまいには家族も歩いていってしまい、円盤には俺一人になってしまいました。すると、山の向こうから新しい友達がたくさんやってきます。いつしか山は巨大なビル群になりました。円盤の中を車が走り、電車が走り、上空を飛行機が飛んでいきます。俺は新しい友達と話し、遊びました。そいつらの中にも、ビル群の向こう側へ歩き去ってしまう人もいましたし、向こう側から少し遅れてやってくる人たちもいました。しまいには、かつて山の向こうに歩いていった人も何人か戻ってきたのです。
ある日、パンダをたくさん乗せたヘリコプターがやってきました。ヘリコプターが着陸し、凶暴なパンダを円盤の中に解き放ちました。友達はみんな、パンダに食べられてしまいました。一匹のパンダが俺のところにやってきて、首を傾げ、こう言います。
「あなたは普通ですか」
俺は、わからないと答えます。パンダは首を傾げながら、どこかへ行ってしまいます。また別のパンダが来て、同じことを聞いてきます。同じように答えると、同じようにどこかへ行ってしまいます。何匹も何匹も、パンダは俺のところにやってきて、同じ質問をします。首を傾げながら。
「あなたは普通ですか?ひとりぼっちなのに」
公園にあるバネ式の前後に動くパンダに座り、小さな子供たちが野球をするのを見ていた。ボールがバットに当たるごとに、彼らは歓声をあげながら走り回り、それを追いかけた。野球の守備には定位置というものがあり、基本的に飛んできた打球には担当者がいて、それを処理するのだということは、彼らにとってはまだまだ理解し得ないものであるようだった。打球が俺の足元に転がってきたので、彼らは我先にと俺の方に走ってきた。
「変なおじさん。大人なのにパンダで遊ぶの」ボールを拾った子供がそう言った。周りの子どもたちも、変だ、変だ!と大笑いしながらまた元の場所へ走って戻っていった。
そうだな、と思った。俺は——そう、俺はパンダで遊ぶにはあまりにも普通で、あまりにも変だ。