アフリカ

 駅ビル構内の人工的な光が、チェーンのカフェのカウンター席にまばらに座る人影を明るく照らした。カウンターは透明なパーテーションで区切られていて、そのなかには充電用コンセントがついているものと、ついていないものがあった。その後ろにはレジスターがのった大きなテーブルと、ガラスケースに飾られたサンドイッチやパンやクッキーの並びが見えた。店のマークが箔押しされた包装ビニールのパッケージが角度によって黄色く光った。窓からは仕事から帰路につく人々の歩く様子がよく見えた。
 カウンター席のいちばん奥に、二人の新入社員が並んですわっていた。どちらもコンセント付きの区画を獲得しており、会社から支給された黒いノートパソコンに給電していた。ひとりは小柄で、やや髪を伸ばしており、艶光りのする整髪料で後ろに撫でつけていた。もうひとりはサイドの皮膚の色が見えるほど髪を短く刈り込み、発達した二の腕が動かすたびにスーツを窮屈そうに見せた。小柄な男は、相方が何かいうたびに神経質そうな表情で微笑んだ。大柄な男は、太い額縁の四角い眼鏡の奥に時折、油断ならなさそうな光を浮かべていた。
 大柄な男のデスクトップにメールの通知がきた。
 「あしたの九時半に会議が入った」彼はいった。「勘弁してくれよ。まだ、オンラインでよかった」
 「まだ配属されたばかりなのに」と、小柄な男がいった。
 そこに若い女性の店員がやってきた。
 「お客さま、ただいま店内は混雑しておりますので」申し訳なさそうに、彼女はいった。「お仕事でのご利用はご遠慮いただけますでしょうか」
 「すみません」と、すぐさま小さい方の男がいって、反射的にショートカットキーを押し、ウィンドウズをロック画面にした。どこか遠い国のサバンナの様子が、日本の日付や標準時とともにうつし出された。
 「そんなに混んでますかね?」大きな男は、ごく丁寧にいった。正確に言えば、それはその男が生まれ持った特性をして、やや威圧するような調子だった。彼の首元にはまだ社員証の入ったネックストラップがぶら下がっていた。いっぽうで小柄な男は、会社を出てすぐにそれをきちんとしまっていた。
 ところで、たしかにこの男の言うとおり、カフェチェーンの客数は多く見積もっても座席数の八割には満たないほどのものだった。ただ、これから仕事終わりの駅利用客がふえてきそうな時間帯でもあった。この女性店員は何も考えずに規則どおりの対応をしたのかもしれないし、これからの客数を見込んだ対応をしたのかもしれない。それは、微妙なところだった。
 「この時間から、お客さまもたくさんいらっしゃると思いますので」
 「混んできたら、帰りますよ」
 「混雑時にはパソコンなどのご利用は控えていただく、というのがこの店のルールでございます」
 「だから、まだ大丈夫ですって」
 「後から来たお客様にも、同様のご説明をさせていただきますので、やはり現時点でお店にいらっしゃるお客様にも、作業などはご遠慮いただかないと」
 女性店員は折れなかった。双方のことばには段々と力がこもってきた。小柄な社員は、いっさい口をはさむことなく、ただ不安そうな微笑みを浮かべてそれを見守っていた。内心では、重要な仕事なんてなにひとつしていないのだから、さっさと帰ればいいだろう、と思っていた。そしてその論点はじっさい大柄な社員の胸中にもあったのである。ところが、大柄な社員は、もはやその点にはこだわっていない。彼は、自分自身のなかでいったん正当だと判断する理をもてば、その理論が破綻しないかぎりはそれをあくまでも守り続けたいというタイプの人種だった。もうひとつには、女性店員の「……いただかないと」という言い方がどうも彼の敏感なポイントを刺激してしまった、ということもある。
 「わかりましたよ」彼は、不服そうな顔をしながらも、女性店員の指示にしたがった。ネックストラップを外しながら、スーツのポケットの中に入れた。そして会社の機密情報がふんだんに盛り込まれたエクセルを隠すように、ウィンドウズを画面ロックした。どこか遠い国のサバンナがふたつのモニターに並んだ。
 「申し訳ございません」女性店員は、まったくそうは感じていないといった調子で、いった。
 二人の男はほぼ同時にパソコンを閉じた。それとともに、サバンナの景色もふたつ同時に消えた。
 まだ、はなしのわかる人間でよかった。と、彼女はレジスターのほうに向かいながら、考えていた。これで一日何度喧嘩になることか。仕事なら会社か、家でするものでしょう。なにが楽しくてこんな貧相なカフェで仕事をやるの? だいたいここで閉店ぎりぎりまで粘っているのは、あの会社の——彼女は大柄な男がつけたままにしていた社員証を思い浮かべた——どうせろくでもない窓際社員だけよ。とはいえ彼女のほうでも、店内で作業されること自体にいやけがさしているわけではない。その結果として飛んでくる店長やマネージャーの叱責をなによりも避けたいのだ。
 こいつは——電子決済で自分のコーヒーの代金を支払い、大柄な男と改札のほうに向かいながら、小柄な男は思った。なんでそこまでして、トラブルの種をそのへんにまきちらすようなことをするのだろう。われわれは新入社員だぞ? ほぼ学生と一緒なんだ。いろんなしくみのことは偉い人に任せて、できるだけ波風をたてないようにするのが、まずわれわれのいちばんの仕事だろう。大柄な男は、上司からの指示が前日と少しでも違っていたり、理不尽であったりすれば、そのたびに食ってかかるような、そんな人間だった。それで、配属数日目にして、すでに若干の鼻つまみ者扱いがあった。小柄な新入社員は、そのいさかいを見るたびに、心が痛んだ。まるで自分が上司と直接言い争いをしているかのように、心臓がぎゅーっと絞られるようなかんじがするのだ。彼は、安住を何よりの美徳とする人間であった。


 駅ビル構内の人工的な光が、チェーンのカフェのカウンター席にまばらに座る人影を明るく照らした。カウンターは透明なパーテーションで区切られていて、そのなかには充電用コンセントがついているものと、ついていないものがあった。このカフェチェーンの内装にはすこしだけ趣向が凝らされていて、淡く光る白熱電球のような黄色っぽいライトもそのひとつだった。ただし、テナントは店の外にまでルールをおしつけることはできないので、淡い黄色の灯りは駅ビルの真っ白な光とまじり合って、かえって滑稽な光を机や床にばらまいた。レジスターが設られた巨大なテーブルと、ガラスケースに飾られたサンドイッチやパンやクッキーの並びが見えた。朝一番から陳列された人気のないサンドイッチの端は少し見ればわかるほどに乾燥していた。窓からは仕事から帰路につく人々の歩く様子がよく見えた。
 カウンター席のいちばん奥に、二人の新入社員が並んですわっていた。どちらもコンセント付きの区画を獲得しており、会社から支給された黒いノートパソコンに給電していた。ひとりは小柄で、やや髪を伸ばしており、艶光りのする整髪料で後ろに撫でつけていた。もうひとりはサイドの皮膚の色が見えるほど髪を短く刈り込み、発達した二の腕が動かすたびにグレイのスーツを窮屈そうに見せた。その男は若くして白髪混じりだったので、なにも知らない人が見ればとうてい新入社員には見えなかっただろう。小柄な男は、相方が何かいうたびに神経質そうな表情で微笑んだ。大柄な男は、太い額縁の四角い眼鏡の奥に時折、油断ならなさそうな光を浮かべていた。
 大柄な男のデスクトップにメールの通知がきた。彼はパソコンのボリュームを最大にしたまま、しぼることを忘れていたので、短い間だったが、ぽん、という通知音が静かな店いっぱいに広がった。隣のテーブルに座ってひとり読書をしていた年老いた女性が、一瞬、本から顔をあげた。
 「あしたの九時半に会議が入った」彼はいった。「勘弁してくれよ。まだ、オンラインでよかった」
 「配属されたばかりなのにね」と、小柄な男がいった。
 そこに若い女性の店員がやってきた。
 「お客さま、ただいま店内は混雑しておりますので」申し訳なさそうに、彼女はいった。「お仕事でのご利用はご遠慮いただけますでしょうか」
 「すみません」と、すぐさま小さい方の男がいって、反射的にショートカットキーを押し、ウィンドウズをロック画面にした。
 ロック画面に現れたのは、どこか遠くの国のサバンナの様子だった。画面の奥には青く霞んだ巨大な山がみえる。そして、手前には背の高い草のうわべがまるで茶トラの猫の毛並みのように遠くまで続いていた。左隅には地面から引き抜いて逆さに植え直したような形の木が数本生えているのが見える。右下には、平凡で見やすい白のフォントで日本の日付と標準時が記載されていた。
 「そんなに混んでますかね?」大きな男は、やや食いつくような言い方をした。それはその男が生まれ持った特性をして、たいへんに威圧するような調子だった。彼の首元にはまだ社員証の入ったネックストラップがぶら下がっていた。
 ところで、たしかにこの男の言うとおり、カフェチェーンの客数は多く見積もっても座席数の八割には満たないほどのものだったし、そもそも席に座って読書をしている人も多い中で、パソコン作業をしている利用客だけに注意を与えるのは不自然な感じもした。ただし、これから仕事終わりの駅利用客がふえてきそうな時間帯でもあった。この女性店員は何も考えずに規則どおりの対応をしたのかもしれないし、これからの客数を見込んだ対応をしたのかもしれない。ただし、後者であれば読書をしている利用客にも注意を与えるのが当然の対応であった。
 「この時間から、お客さまもたくさんいらっしゃると思いますので」
 「混んできたら、帰りますよ」
 「混雑時にはパソコンなどのご利用は控えていただく、というのがこの店のルールでございます」
 「だから、まだ大丈夫ですって」
 「後から来たお客様にも、同様のご説明をさせていただきますので、やはり現時点でお店にいらっしゃるお客様にも、作業などはご遠慮いただかないと」
 「でも、本を読んでいる方もたくさんいらっしゃいますよね」
 「いただかないと」という言い方が彼の敏感なポイントを刺激してしまったようで、彼の語気は一段と強まった。今にも飛びかかりそうな感じだ。
 小柄な社員は、いっさい口をはさむことなく、ただ不安そうな微笑みを浮かべてそれを見守っていた。内心では、重要な仕事なんてなにひとつしていないのだから、さっさと帰ればいいだろう、と思っていた。同時に、彼はこの大きな男の性格も心得ていたし、作業をする客のみを禁ずるこの店の方針にもいささか疑問を感じていたので、こいつが折れることはないだろう、というのもわかっていた。
 「読書はしていただいてもかまいません。お仕事やお勉強はお控えくださいと、ここの注意書きにも書いております」彼女はコンセントの横に貼り付けられた小さなシールを指差した。”混雑時には滞在は30分までとさせていただきます。場合によってはお声がけさせていただくこともあります” とあった。
 「いや、仕事しちゃダメとは。どこにも書いてないです」
 「それは、普通に考えて」と女性店員は笑いながらいった。「そういうことでしょう」
 ここでやっと、平和の使者たる小柄な新入社員が口を挟んだ。このままでは戦争になることを敏感に察知したためである。
 「わかりました、すみません。帰りますので」
 そして、相方の方を見ながら、ちょっと嫌味っぽく言った。「たしかに読書ならいい、っていうのはよくわかんないけど。でもまたあしたやろう、今日のところは帰ったらいいよ。疲れてるし。あと」
 小柄な男は気をつけた。「パソコンはロックしといたほうがいいよ」
 大柄な新入社員の失態であった。彼はこの言い争いで少なからぬ客の注意を引いている中、会社の機密情報がふんだんに盛り込まれたエクセルを店内に向けて公開し続けてしまっていたのである。彼は慌ててウィンドウズをロックした。こうして店内にふたつのサバンナが並んだ。誰が、いつ、その写真を撮ったのかわからないが、そしてマイクロソフトの担当者はどのような意図でそれを選んだのかわからないが、その写真に映し出されたサバンナは曇り空だった。鈍い灰色の空を嘲るように白と黒のコントラストがはっきりした大きな鳥が飛んでいった。背の高い草は干したような色によく乾いていて、あたりの草食動物が踏み締めるたびに乾いた音がした。めずらしく冷たい、湿り気を持った風がふき——悪魔の木と細長い植物という植物が順番にさらさらと揺れた。
 「申し訳ございません」女性店員は、まったくそうは感じていないといった調子でいいつつも、逃げるように去っていった。
 「しょうがないな」と、大柄な男は冷静さを取り戻したように言った。
 「ちょっと変な店だから」
 「ほんとその通りだ」小柄な方の新入社員は、平和の使者としての本領を発揮したことに満足した。
 二人の男はほぼ同時にパソコンを閉じた。サバンナはふたつ同時に消えた。
 大柄な男は立ちあがって荷物をしまいかけた。そこでふと、手を止めた。そして、小柄な男の方に向かって、こう訊いた。
 「なあ、俺らって、死ぬまでにアフリカの土を踏めるのかなあ?」
 彼はじっと大柄な男の目を見た。眼鏡の奥にあった光に一瞬、変化があらわれて、消えた。小柄な男は正体を掴もうとした。それは現状への不満ともとれた。将来への期待ともとれた。開放感への憧れとも、繰り返しの単調さに対する抵抗ともとれた。脳裏にあったのは砂漠だったかもしれないし、赤土だったかもしれない。マダガスカルのめずらしい動物たちだったかもしれないし、キリマンジャロの山頂だったかもしれない。ナイロビの空港だったかもしれない。タンジェの船着場だったかもしれない。トーキング・ヘッズの打楽器のリズムだったかもしれないし、ディディエ・ドログバのヘディングシュートだったかもしれない。多くのものごとが小柄な男のニューロンをつたって浮かび上がってきた。その見開きの一ページは、駅ビルの光の下にあって、鮮やかに原色だった。
 こいつは——電子決済で自分のコーヒーの代金を支払い、大柄な男と改札のほうに向かいながら、小柄な男は思った。何を考えているのだろう。それはすでに、彼の問題から、われわれの問題へとすり替わっていた。われわれは死ぬまでに、たった一度でいい、アフリカの土を踏むのだろうか。それとも、これきり、この平凡な水曜日の夜きり、そんなことは露にも思わないまま、この地方都市の土に戻っていくのだろうか? 彼は、自分は後者であるのだろうと想像した。彼は、安住を何よりの美徳とする人間であった。