この曲を聞くとあれを思い出すということがある。第三の男のテーマを聞けばビールを思い出すし、ビタースウィートサンバを聞けば深夜ラジオを思い出すし、イッツマイライフを聞けば筋肉芸人を思い出す。そしてこの弦楽のためのアダージョを聞けば葬式を思い出す。
僕の参列した葬式の三回中三回ともこの弦楽のためのアダージョが流れていた。僕はもう少し葬式に参列しているがそちらの方の記憶はあまりない。僕が覚えているのはこの一週間の間に参列した三回の記憶だ。葬式には葬式の音楽があってクラシックしかかからない。クラシックのなかでもかかりやすい曲とかかりにくい曲とがある。あまり盛り上がりすぎてもわけがわからないし悲しみを強調されすぎてもあまりいい気持ちではない。とにかく寄り添う感じが大切なのだ。自分の気持ちを演出されていると感じない程度の音楽が必要だ。無音だと寂しさに吸い込まれてしまう。
僕が通っているのは田舎の小さな葬儀場だ。地元に根差したタイプの葬儀場で、安さが取り柄の大手葬儀チェーンの地方進出を拒んだ。都会と違ってそういうことが起こりうる業界なのだ。外観は大きな公民館みたいだ。小学生のころに巡回してくるミュージカルとかピアノコンサートを見た中央公民館に似ている。イベントごとを執り行う施設というのは面構えが似てくるのだろう。僕は受付で香典を渡して名前を記入する。受付に座っていたのは親族だろうか若い男性だった。名前は適当に書く。会場に入ると入り口付近にたっていた若い女性と目がある。この葬儀場で働いている女性だ。目が合うと怪訝そうな顔でこちらを見てくる。それは仕方のないことかもしれない。僕はこの葬儀場で行われている直近の葬式三回に皆勤賞だからだ。が彼女が僕に対してできることは何もない。僕は死んだ人とは全く面識はないがしっかり悲しんでいるし大騒ぎするわけではない。しっかりと哀悼の意を全身で表している。SNSで有名人が死んだときに哀悼の意を示すのと何ら変わることはない。むしろ足を運び面と向かって手を合わせているので僕の方がましだという考えた方もできなくはない。葬式に通って分かり始めたことがある。僕のすぐ後に受付を済ませた男がいる。初老の眼光がするどい小太りの男だ。この男も僕と同じく葬式に皆勤賞だ。どこかで見おぼえがあると思っていたがこいつは僕らの町の町長だ。商店街で小さな仕出し屋をしていたが政界に進出して長い任期町長を務めている。町長がたまたま三回とも死んだ人間と顔見知りだったとは考えづらかった。色んな葬式に顔を出して遺族に亡くなった方と知り合いだったんだと思わせて支持基盤を広げようとしていると考えるのが妥当な線に思えた。彼は僕と同じように哀悼の意をしっかりと表現していた。悲しむ気持ちに付け入るようで気持ちが悪いが第三者の哀悼の意を示すことを止める理由はどこにもなかった。それにそんな卑しくせこい考えを気にする余裕は遺族にはない。相手に演出させていると感じさせなければそこには問題は生じてこないのだ。さっき僕のことを怪訝そうな目で見てきた女職員もそうだ。考えた方によっては人の死を飯の種に変えていると言っても過言ではない。僕なんかよりもよっぽど怪訝な目で見られるべきだ。それが特に問題にならないのも演出の問題だ。
今日の葬式は妊婦の葬式だった。出産に際して母親も娘をどちらも死んでしまったらしい。こういうものは母親か娘かどちらかは助かるものだと思っていた。日本において出産の死亡率は極めて低くなっている。母体も助からないとなるとかなり低い確率になっている。ただ確率というものは起きた当人たちからしてみればあまり大した問題ではない。2人とも死んでしまったのだ。それが何パーセントしかないことなのだと言われてもどうしようもないだろう。町長や葬儀会社のように何かと取って何かを捨てなくてはならない人々の思考を助ける数字にしかならない。前回や前々回の葬式はからっとした雰囲気で和やかだった。天寿を全うしたというべき高齢な方々の葬式だったのもあるだろう。今回はそうはいかない。まだ若い母親と赤ん坊の葬式だ。雰囲気は重い。後ろの方の席に座って目を閉じる。
僕は羊水を飲まなくてはならない。このことと僕が葬式に通い始めたのとは特に関係があるわけではない。僕が考えて行動することなので無意識なところで結びついているのかもしれないがこれがこうだからこうというような明確な理由はない。僕が羊水を飲まなくてはいけないのは松村さんの助言があったからで、葬式に通い始めたのは僕の純然たる興味だ。松村さんというのは僕の体の不調を直してくれる天啓を受けた中年の女性だ。ふくよかな見た目は祝福を最大限に受けていることを示している。病院にかかっても治らなかった不眠が彼女には話しただけで治ってしまった。彼女いわく病院というのは体の免疫力を否定し気の流れを阻害する一時的な気休めでしかないらしい。それもそうだ。医療何てものはここ何百年かの話で彼女がつかっているのは人間がこの地球に生を受けてからずっと受け継がれてきたものなのだから。松村さんの力は男である僕には決して目覚めることはない力らしい。僕はこの素晴らしい力をもっと世界中に広めたいと思ったがそのためには天啓を授かる必要がある。そのためには何が必要なのかとしつこく聞いたが松村さんははぐらかすばかりでなかなか教えてくれなかった。それがこの間松村さんが仕方ないという風に教えてくれた。羊水を飲めばいいのよ。そうすれば男のあなたでも天啓を授かることができるわ。私のところにもってきなさい。一緒に飲めば私の天啓があなたにも移る。そう言われたが僕にはどうすれば羊水を飲むことができるのか全くわからなかった。破水したところを下からキャッチしたらいいのだろうか。産婦人科に行って頼めばもらえるものなのだろうか。松村さんはそれも縁というものなのですと言って羊水の手に入れ方は教えてくれなかった。
僕のお焼香の順番が回ってくる。この妊婦の葬式に来たのは本当にたまたまだった。羊水を飲まないといけないとかは全く関係がない。僕はいつも通りの作法でご焼香をする。目の前の羊水は腐ってしまっているのだろうか。僕は手を合わせた。
他人の羊水の味は僕に天啓を授けてくれる。僕が胎児だったころ、僕は羊水を飲んでいたのだ。母親の羊水の味を僕は思い出せないでいる。