宗教としての経済学・人間の二種類の壊れ方

8月に大学を卒業して少し経つ。今思い返すと、授業をあまり真面目に受けていた覚えはないし、成績もひどかった。しかし大学時代の専攻であった経済学は、その特性からあるシステムに対する距離感のバランスをとることの重要性を教えてくれ、結果として生き方についてのヒントをくれたように感じることがある。それについて、社会人になる直前のこのタイミングで書いておこうと思う。

大学で学んだ経済学は、ひとことでいってしまえばモデルを活用するということだ。与えられたモデルによって世の中の現象を説明することや、終盤には世の中の現象を自らモデル化して説明することを試みてきた。経済学の特徴として、チェコの経済学者であるセドラチェクは『善と悪の経済学』のなかで次のように述べている。

物理学が用いる仮定のロジックは、経済学とはまったくちがう。仮定はいわば足場として組まれ、人工的な補助手段として建設作業に活用されるが、建設が完了すると撤去される。(中略)実際の応用に当たっては、単純化された設定は忘れて現実に戻る必要がある。モデルを形成するときは現実に目をつぶり、モデルを現実に応用するときは、今度はモデルに目をつぶらなければならない。仮定の下に隠されたものを見るには、足場を取り壊さなければならないのである。
ところが経済学の場合には、往々にして仮定を撤去することができない。建設後であっても、である。仮定を取り去ると建造物全体が崩壊しかねない。

『善と悪の経済学』 – トーマス・セドラチェク

つまり経済学というのは「前提ありきの学問」であるということだ。前提はかなり自由に設定することができ、それを新たに設定することで新しい学派が生まれる。たとえば行動経済学という比較的新しい経済学の分野は、人間を「合理的な存在」とみなす従来の前提を覆した。

経済学の勉強を進めるにつれ、そのモデルを支えている仮説から一歩引き、他の考え方についても学んでみたいと思うようになった。そのように学ぶうちに、最終的には経済学はかなり宗教的な色が強いということが分かった。前提はいわば思想で、乱暴に言ってしまえば「信じたいものを信じる、それで無理やり現実世界との整合性をつける」というものである。

「経済成長」というキーワードを据えること自体に対して批判的なのが先ほど引用したセドラチェクである。僕が読んだ中で、以下の休息に対する考え方はまさに経済活動の前提に対する疑問符だと感じた。

安息日を守りなさいという命令には、想像には目的があり、終わりがあるというメッセージも込められている。創造するために創造するのではない。すべての生き物は、達成と休息によろこびを見出すように創造されている。
(中略)
今日の経済学からは、この視点が抜け落ちている。経済活動には、達成して一休みできるような目標がない。今日では成長のための成長だけが存在し、国や企業が繁栄しても、休む理由にはならない。よりいっそうの高業績をめざすだけである。休息の必要性が認められているとしても、それは達成感に浸り成果を楽しむためではない。酷使された機械の休息、つまり疲れた体を休め元気を回復するための休息である。

『善と悪の経済学』 – トーマス・セドラチェク

休息とは娯楽ではないという考え方も別の本で主張されている。

基本的に「情報の移動」は先進国の経済の要となるサービスの大半で、典型的な「仕事」です。アリストテレスが見たら、これは娯楽だと思うでしょう。
自由な時間ができたら、何をします?ジョギングしたり、狩りをしたりする。庭の手入れもします。特にチェコではね。料理をすることもある。アリストテレスにとってこれは仕事です。でも私たちにとっては娯楽です。
(中略)
何が労働で何が娯楽かは非常にランダムです。時代によっても変わるし、人々の心理にも大きく影響を受けます。

『欲望の資本主義』 – トーマス・セドラチェク

このたとえは割と無理やりかもしれない。しかし、うなずける部分があるのではないかと思う。それまで娯楽だったことを仕事にすることによる葛藤は多くの人々の口に上る。ミュージシャンになって、音楽を作曲の材料としてしか聞けなくなってしまった、などというように。やりたいことと、やらなければならないことの境目をどのように設定するのかはかなり難しいことである。

では休息には何が必要か、というと、かの借金玉先生もいうように「なにもしない」ということだ。セドラチェク流に言うと、「達成感に浸り成果を楽しむ」ということになる。

いま、「成長」が前提となる経済学の常識は世間の常識とほぼイコールである。資本主義経済はそれ自体が宗教性を帯びた一つのシステムだということを理解する必要は確かにある。それに対して漠然と疑問を投げかけるような言説はよく見かけるが、セドラチェクは休息の意味の変化という切り口からこの問題を論じた。

もう一つ大きな影響を受けたのが、佐藤優による資本論宇野学派解釈の一般向けの解説書だ。これに入れ込むとますます本題に入れなくなるので触れておく程度にしておくが、著者は資本主義の前提である労働力再生産への疑問を呈した。また経済を学ぶ姿勢として、自らが資本主義システムの中にいることを俯瞰の視点で見ることの大切さを投げかけていた。

経済学というのは、一見数学のような印象があったが、大きく見れば結局のところ哲学や宗教に近いものであったと思う。大学の勉強とそのモデルの前提自体の勉強を通じて、僕はあるシステムに対する見方が距離感でこのように大きく変わることが面白いと思った。そして「システムとの距離感」という考え方は、人生の様々な部分にあてはまるのではないかと考えた。あるシステムに対する距離が極端に近くても、遠くても、それは望ましくない結果をもたらす。

何かのシステムに依拠して生きる人は、それに無理があったとしても気づかない。システムの周りが見えてなさすぎて崩壊してしまう例というのが多い気がする。肉体的な死として過労死があげられる。これは、自分が会社というシステムのなかでもう維持しきれないほど負担になっているのに気づかないまま無理をして、気づいた時にはもう手遅れになっている、ということから起きるのではないか。また社会的な死もある。悪い宗教やマルチ商法にひっかかるというのは、自分の立場を俯瞰できず、そのシステムの内側しか見えなくなるということだと思う。洗脳されることで、結果的に失ってしまうものは多いが、本人はそれに気づかない。他にも自分の考え方のシステムがどのようになっているのか、一歩引いて見られない人は議論を台無しにしてしまう。恋愛関係というシステムに依拠しすぎるような人やそのような関係、「メンヘラ」とよばれるような状態はいつか崩壊してしまう。

これらの崩壊はさまざまな形をとるし、「それとそれは一緒ではないだろ」という考え方もあるかもしれない。しかし僕は、どれも原理は似ているのではないかと考える。

このメカニズムは「体育会系崩壊」とでも呼べると思う。個人的には、この性向はスポーツと非常に親和性が高いと思うからだ。僕はさほど部活一筋ではなかったが、部活のシステムに夢中で入り込み厳しい指導を受けていると、それ以外の価値観が考えられなくなってしまうというのは経験としてよくわかる。日大アメフト部の問題なども、顧問の指示が絶対という環境が大きなバックグラウンドとしてあったはずだ。

かといって、システムから達観しすぎる人、言い換えれば何でもかんでも俯瞰で見る癖のある人も危険である。文豪やミュージシャンの「考えすぎて自殺する」というパターンはこれに近い。自分で世界を生み出せるほど、自らの置かれた立場を客観視できる人は、時として生死さえも相対化してしまう。また、なにかのシステムに入って努力することを馬鹿らしいと感じる度合いが強ければ就職もできなくなってしまうか、自堕落な生活を送ってしまう傾向があると思う(誰のことだろう?)。つまり社会的な死もこちらのサイドにも存在する。他にも議論を冷めた目で見て「どっちもどっちだろ」となる人は逆に建設的な議論ができない。自分たちの恋愛を俯瞰で見て相対化してしまうような人間は冷めてしまうだろう。これらの崩壊はシーソーのもう一つのサイドだと思う。

こちらに名前を付けるとしたら「文化系崩壊」となるだろうか。先ほど文豪やミュージシャンの人間としての崩壊について書いたが、この性向はアートと親和性が高い。いいかえれば、現実世界以外の世界観に触れる機会が多いと、俯瞰の癖が良くも悪くも身についてしまうのではないかと考えている。

もちろん、スポーツをしているから前者の危険があり、アートが好きだから後者の危険があるというわけではない。スポーツやアート以外にもそれぞれの危険と親和性の高いものがいくつか思い浮かぶが、一番わかりやすいと思ったので例に使っただけだ。

この「依拠」←→「俯瞰」のシーソーは気づかないながらもだれしも持っているものだと思う。肉体的な死は、それぞれの崩壊の最たるもので、普段の生活でそこまでシーソーが傾き切ることはなかなかないかもしれない。しかし、ある局面においてこのバランス感覚を失ったことによる小さな崩壊や認識のずれは、日常的に起こっている。

そして「視座の使い分け」というのは、かなり難しいことなのだと思う。周りを見てみても、だいたいどちらかの視座に偏る傾向が強い人が多い。視座を適切に使い分けられている人は滅多にいない。システムのなかしか見えていない人は当然俯瞰した視座を持ちえないし、俯瞰は知らず知らずの間に癖となり必要な時にシステムに身を投じる覚悟を奪う。自分自身について考えてみると、割と多くの局面で後者による崩壊のリスクのほうが高いかなと思う。また、人物の好みとしても、その傾向のある人間のほうが個人的に好きというのはある。「良いヤツだけど合わないヤツ、悪いヤツでもなんか合うヤツ」とは僕にとってはそんな感じだ。俯瞰の視点が抜け落ちている人と話すのはそんなに面白くないという考えは今でも多少ある。

しかしこのバランス感覚が非常に重要であることは、言語化できないまでも自分の大学生活を通してずっと心にあったことだ。気づけば過去の記事でも知らず知らずのうちにこのテーマに触れ、それぞれの立場からものを書いていたように思う。「夜間飛行とインターステラー」の記事では洋の東西による価値観の比較のような書き方をしたが、要するに「がんばること」を冷笑的に見る態度を問題にしたわけだし、「プラトンの国家」に関する記事ではフィクションを通して自分が置かれているシステムを把握することの大切さを主張した。

そして最近「システムに対する視座のバランス」というようにぼんやりとだが考えられるようになってきた。とくに大学生活終盤、就活に失敗しまくったころのことだと思う。個人的にはこれからの人生でも大きなテーマになるのではないかと考えている。

いま、学生生活を終えるに伴い、資本主義経済というものに右も左もわからないまま突っ込んでいくことになる。僕はその入り口にいる。大学生活で視野は確かに広がったかもしれないが、大きな視点をもてばもつほど、あるシステムに全力で身を投じることが難しくなってはいないだろうか。全力で経済というシステムに突っ込んだ生活を送りつつも、たまには労働者としての自分を俯瞰で認識し、休息のときには達成をよろこぶことができるということ。そのバランス感覚を決して失わないこと。この先何があっても、これだけは大切にするべきだと感じ、文章という形で未来に残るようにしておくのだ。