今までの道を鑑みよ

歩くたびに糞尿が飛び散る。働き初めのほうこそ気になっていたが今ではなんてことはない。踏みしめるたびに立ち香ってくる嫌な臭いにも慣れた。四方にびっしりと生えているヒカリゴケの薄暗い明かりで壁に彫られた文字を確認する。今は梅に鶯にいる。石板に神託が来ていたのは竹に雀だったはずなのでここからもうしばらく歩くことになる。臭いには慣れたが1日中歩き続けることによる疲労には未だ体が対応しきれていない。足の裏にもう一つの見えない足の裏が出来てそこがじんじんと痛む。それでも俺はここで一晩歩き続ける。向かいから同じように籠を背負った老人が歩いてくるのが見える。この通路は人がすれ違うのがやっとの空間しかない。体力に余裕のあるとされる若者が道を譲ることになっている。立ち止まって老人が通りすぎるのを待つ。すれ違いざまに老人の背中にミミズの這ったような火傷の痕を認める。籠の中も大して華を集められている訳ではないようなので罰が与えられているのだろう。ここでは最低限必要な華の量が決められておりそれに満たないものは痛い目を見る。まだ歩ける方の俺ですらその量を取るのがやっとなのだから歩くのもやっとのような老人には無理があるだろう。振り返りながらおっちら歩いている老人を見ていると尿を垂れ流し始めた。止まる時間ももったいないのでああするのが普通だ。一応一目は気にする奴が多いがそんな暇もないのだろう。どうしてそこまでしてこの迷宮で働いているのか俺には理由がよくわかる。1日歩けば玄米が5合も支給される。税として2合、籠代として1合引かれて手元には2合残る。1人が生きていくには十分な食料だ。寄る辺のない人間が1人で食料を調達することはとてつもなく困難である。そんな事情もあってこの迷宮では世間との関わりを持てない者たちが歩き回っている。

 迷宮に関して知っていることは少ない。山の麓の洞窟が入り口になっていることくらいだ。あの小さなが洞窟の中がこんなに複雑な経路を持っているとは想像も出来ない。ただここの全貌を知ることは食料を楽に調達できることを考えれば大した問題ではなかった。

 竹の区域に入る。そこからさらに杜鵑、鶯、鶴などと分けられておりその区域で華を取ることになる。次が雀の区域だなと思っていると鶴の区から監視員が出てくる。会釈してすれ違うのを待っていると意味もなく木刀で横っ面を張られる。足に力が入らずに糞尿で滑る床を踏ん張り切れない。倒れて顔が汚物でまみれるのがわかる。鼻に入ったものを出しながら見上げると見覚えのあるニキビ面の男が笑いながらこちらを見ている。確か昨日まで華を集める方で働いていたはずの男だ。華集めの要領がよかったのだろう監視員に引き上げられたのだ。へこへことしながらすれ違っていたのが嘘のように堂々と立っている。

「早く立たんか!」

 木刀でまた何度も打ち付けられるので痛みをこらえて慌てて立ち上がる。満足そうな男はそのまま立ち去った。俺はこのまま床に這いつくばって眠ってしまいたいのを必死にこらえて歩みを進める。

 竹に雀に到着する。壁一面に幻想的な光を放つ華々が咲き誇っている。区画は開けた空間になっており入るたびに圧倒される。ここは優美な空間ではあるが足元は人糞で滑る。もう一度石板を確認すると黄色く発光を始めた。これは石板と同じ光の花を集めよというご神託である。よく見るとここは寒色系の華が多いのでこの色は目立っている。すぐに仕事が終わりそうだと黄色い華に近づいていく。華は手でもぎる。茎を3寸ほど残して取るのがここの規則だ。華は1方向に折るだけで簡単に取れる。手近なものから摘んでいく。ほんのりと黄色く光っている華に触れると心なしか光が強くなる気がした。そのまま茎を折るとさらに光が強くなる。華が茎から離れる瞬間にその光は最大限に大きくなりこぼれてなくなった。手元の華は光っておらずもう既に萎れてしまっている。初めて摘んだ時は奉納してしまって大丈夫なのかと不安になった。それでも今まで一度も罰らしい罰はないので問題ないらしい。

 あたりの黄色い華を一通り摘み切ると籠がいっぱいになる。こうなると華を一度奉納しにいく必要がある。ここから神棚まで戻るのは手間だが仕方がない。中身を下ろしてまたここまで戻ってくることになるだろう。効率的にできないかと思うが取り決め事なので仕方がない。籠を背負い直して竹に雀を出る。

 もと来た道を戻りながら奉納に向かう。その道中、迷宮にお告げが響きわたる。

「今までの道を鑑みよ。今までの道を鑑みよ」

 このお告げがどういう規則性を持って迷宮に降りてきているのか全くわかっていないが時々聞こえてくる。

「今までの道を鑑みよ。今までの道を鑑みよ」

 脈絡もないし意味もわからない。このお告げが流れたからと言って何かが迷宮に起きる訳でもない。監視員たちも無視している様子なので詳しく知っている訳ではないのだろう。他の奴らも聞こえているのかいないのかわからない表情ですれ違っていく。俺だけにしか聞こえていないのではないかと不安になる。が、この話をあの監視員としていたことを思い出す。あいつには“ただひたすらに進め。ただひたすらに進め”と聞こえていると言われた。迷宮中に反響しているせいかぼんやりとしか聞こえずはっきりとはしない。だが俺にはどうしてもそういう風には聞こえてこなかった。まっすぐ進めと言われて俺はいつも活力を貰っているんのだとあの監視員は遠くを見ながら言っていた。この感性の違いがあいつを監視員にして俺を未だ1日中歩きまわらせているのかも知れない。

 神棚まであと1区域というところで脇の道から若い女が俺の前に合流する。小柄なせいか俺と同じ大きさのはずの籠がやたらと大きく見える。手を伸ばせばその籠に触れることが出来そうな距離だ。神棚が近くなるとこうして通路が混雑する。俺が女の後ろを歩くときはいつも視線を少し落とす。女が歩くたびに形のよい尻が揺れる。女だろうが腰布の着用しか許されていないのでその動きがよくわかる。肩ほどまでしかない髪も揺れてその残り香の後を俺は歩く。男と女の体の違いを逐一感じる瞬間だ。ただ曲線が違う、匂いが違うだけなのにここまで強く印象付けられるものなのか。この先の区域は女には歩きづらくなる。直接聞いたことがあるわけではないが少なくとも俺はそう思っている。通路の脇に転がされている女が増える。これは労働者に襲われた女たちだ。生産性が上位の奴らは女を襲ってもお釣りがくるくらいの時間を持て余している。そういう奴らは目の前を歩いている女で憂さ晴らしをしている。俺の生産性ではそんなことをしている余裕などないので黙って後ろを歩いている。なぜそこまでして女たちも働いているのかというのはあの小便を垂れ流していた老人と全く同じだ。腰のあたりにある黒子の数を数えている途中で何度も最初からやり直しながら数え終わるころにようやく神棚についた。

 神棚は迷宮では最も開けた空間である。そこへぽっかりと底の見えない穴が開いている。その穴の大きさは途方もなく向こうの淵が何とか見えるくらいだ。その縁の淵から通路がそれぞれ放射状に延びている。穴はごごごと音を立てながら空気を吸い込む。落ちたら死ぬだろうことは誰に教わらなくても分かった。華をこの穴に向かって籠から注ぐ。穴は華を一片も残さず吸い込んでいく。初めはおっかなびっくりであったが慣れたものだ。前を歩いていた女も籠から青い華を奉納している。女は籠に引っかかっていた華を細い指でつまみ上げると穴へ向かって放った。落ちていく華を見ていると石板に神託が来ていることに気が付く。次は菖蒲に鴎だ。今日は距離の開いた箇所を何度も行き来させられているから生産性が低い。早く行かなければ。

「今までの道を鑑みよ。今までの道を鑑みよ」

 あの声がまた響いている。彼女にはどのように聞こえているのだろう。同じ言葉が聞こえているのだろうか。彼女は俺とは反対の区域を指定されたらしく別の方向に歩いていく。自分も歩き始めようとしたところで視界の隅で彼女が不自然に通路に引き込まれるのが見えた。振り返って見ると彼女の姿は見えなくなっていた。持ち主をなくした籠だけが落ちている。襲われたな。俺は前を向いて歩きはじめる。止めに行って貴重な時間を奪われるのはごめんだ。そう思って俺の時間が貴重ってありえるのかと自分の考えが途端におかしくなってくる。1日歩いて華を集めることにも、そこまでしても木刀で痛めつけられることも、無茶苦茶な理屈で玄米の半分以上が持っていかれてしまうことも、何もかもが馬鹿らしくなってくる。俺がそう思いながら突っ立っていると石板の発光が強くなって俺を急かしてくる。俺は腰布にくくりつけていた石板を手に取って眺める。俺は石板を投げ出してしまいたい気分を腰布を強くつかむことで何とか抑えつけて歩きはじめた。

「今までの道を鑑みよ。今までの道を鑑みよ」

 いつもの声だが少し聞こえ方が違った。その違和感に神棚の方を振り返ると地鳴りが始まった。ぱらぱらと天井のほうから石が転がり落ちている。地鳴りはさらに大きくなっていき地面が揺れ始めた。立っていられずに糞尿に手をついてしゃがみこむ。神棚の方で爆発音が聞こえてくる。今度は天井の岩ごと穴に向かって落ちていった。天井が崩れていくにしたがって光が差しこむ。もう夜は明けはじめている。穴はかなりの質量の岩を飲み込んでいるがまだ埋まってしまう様子はない。揺れが収まり神棚の方へと近づく。神棚は迷宮の中でも最も高いところにあったようで天井の上は外の空間に繋がっていたようだ。ただやはり穴は埋まっていないようだった。すぐに監視員が飛んでくるだろう。ふと脇の通路に目をやると先ほどの女が赤い石板を持って出てきた。石板の赤は発光している訳ではない。よく見るとそれは血にまみれているようだった。女の顔も拭ったような跡があるが所々血がついている。無表情だった女は大きく口を開けて笑い始めると石板を穴に向かって放り投げた。石板は放物線を描いて淵に当たると半分に割れてそこへと落ちていった。落ちた音も聞こえないほどに深い。女は朝日の中で大きく伸びをしている。彼女は先ほどの落下でも無事だった籠を拾いあげる。それを背負おうとしたところで俺と目が合う。俺がどんな顔をすればいいか迷っていると女は籠を投げつけてきた。

〈了〉