段ボールカプセル

 これはいる。ような気がする。そうは言ってもこれを見かけたの何年ぶりだ。そう思いながら文庫本を箱に詰める。1回読んで更に何度も読む本というのはそう何冊もあるものではない。それがいざ引っ越しの段になって要らん物は捨てるぞという気持ちになるとどうも名残惜しさが勝ってしまう。服なんかは気に入っていたやつでもえいやと捨ててしまえたのだがそれが書物となるとどうしようもない。
 今まではただの収集癖なのだと思っていたがどうもそういう訳ではなかったようだ。初版とかオリジナルLPにこだわっている訳ではない。これはどちらかというと貧乏性がそうさせているような気がする。また読みたくなったら買い戻せばいいと頭でわかっていてももったいないと思う。それにいくら名作でも絶版になってしまえば価格高騰の中古本を買い求めるしかなくなる。そういう懐事情が小さな家に本をぱんぱんに詰め込めさせている。
 本を読みなおす機会というのは滅多にない。それでも年の瀬にケンリュウの短編集を何かのきっかけで再読したときに初読よりもずっと面白かった。SFを特に読んだ2年間だったからだろうか。それとも『円弧』に見られるような人生にどこまでも真摯な姿勢にこの2年間で自分の価値観が共鳴するようになったからであろうか。
 この2年の間に特に得たものはなかったように感じていた。きっとこの先もこの渇望感は消えてなくなることはないのかもしれない。自分の才能の大きさを見つめていると何者でもない現実が変わることはこれから先もないのだろうなと思う。そのギャップをどう埋めていくかの手段は結局手に入れることはできなかった。それでもケンリュウの小説の面白さに気がつけるようになった。友人も出来た。何もなかったというには楽しくて理想的な生活だった。当初の予定とはずれたゴールというか中継点なのだろうが腐すほど悪いものではないだろう。
 たった2年で同じものを読んで感じることが違うのだ。それを身をもって思い知ったのだから普段読まないからという理由で本を手放すのが億劫なのかもしれない。これもある意味過去に出会ったものからもっともっとと求める貧乏性がそうさせているのだろうか。何者でもない人生を楽しもうと考えられるようになるとは自分でも思っていなかった。なんだかこれもまた貧乏性といえるのかもしれない。2年と言うのはあっという間でなにも出来なかったような気もするし、きちんと自分の中でステップを踏んで変化できているような気もする。何がいいたいのか自分でもよくわからなくなるが要するにいい2年だったということだ。
 結局、本は1冊も捨てないことにして段ボールに詰めた。共用部の本棚にも入れっぱなしだ。これからしばらくはふらふらする生活が続く。この馬鹿みたいにデカくて重い段ボールを送っても嫌な顔しない奴なんて俺は知らない。いいことを思いついたというポジティブなアイデアという訳ではなく、仕方なしに俺はこれらを押し入れに置いて行くことにした。何かいい感じじゃん。タイムカプセルみたいで。この場合本自体もカプセルみたいなもんだからタイムカプセルイン段ボールカプセルだな。タイムカプセルっていい言葉すぎるな。こういう時安易に使いたくなる気持ちが目茶苦茶分かる。このタイムカプセルイン段ボールカプセルはいつか落ち着いたら取りに来よう。なるべく早く。ごめんね家主。

<了>