南の島のハメハメハ

 南の島に風が吹く。ハメハメハ大王が歌を歌ったのだ。南の空には星が瞬いている。またハメハメハ大王が新たな夢をみたのだ。

 時間の流れは均一ではないというのは真理なのだと思う。ヤシの下に座って眠気と戦っているといやでもそう思わされる。3日前には学部生たちの卒論を指導しながら院生が学会で行うポスターセッションの面倒をみて、来年からやってくる留学生の書類を作成していたのが嘘みたいにゆっくりと流れている。ポスドクになってから初めて研究費の申請が通った。念願叶ってようやくこのハメハメハ島へとフィールドワークにやってきたのだ。赤道近くにあるこの島は一年を通して温暖な気候だ。マーシャル諸島共和国に属しているがそれは分からないことに厳しい現代社会への建前のようなもので完全に自治を確立している。島民たちは産業革命以前の昔ながらの生活を送っている。電気は通っておらず島に一台だけあるという発電機もガソリンの運送がわりに合わないために最後に稼働してから何十年も経っているらしかった。島民は男女問わず全裸なのだが島を歩いているとTシャツを着た(下半身は丸出しの)島民とすれ違うことがある。ここにもドイツ人の持ち込んだコプラ産業はあり少ないながらも貨幣での収入がある。そういった収入でTシャツを買ったりしている。ハメハメハ島へのアクセスはかなり悪い。日本からだとグアムで乗り継いでアイランドホッピングで島から島を何度も経由してマーシャル諸島共和国の首都マジュロへと向かう。その後もまたアイランドホッピングで一日がかりだ。さらにハメハメハ島にはラグーンやリーフがなく一年のうちの4か月は海が荒れていて近づくことさえできなくなる。
 そういう生活だからもちろん時計もない。時計がないので待ち合わせもかなりアバウトだ。昨日、お昼にこの場所でと待ち合わせたがまだ相手はやってこない。もうお昼なのだろうしまだお昼ではないのだ。この島民たちはハメハメハ語というべき独自の言語体系で話している。それでもマーシャル語やポンペイ語との類似点も多いようで私の拙いマーシャル語やポンペイ語で何とか会話を成立させている。言語学者の端くれである私は言語学のブルーオーシャン(この場合なんてぴったりな表現なのだろうか)であるこのハメハメハ語の調査に訪れている。こんな研究にぴったりなテーマが今まで放置されていたことが私には信じられなかった。ハメハメハ語に関する研究の論文は驚くほどに少ない。あるのはエッセイや旅のコラムくらいの軽い読み物くらいしか存在していないのだ。調査さえすればある程度の成果が見込める題材があるなんて未だに今後の所属先すら決まっていない私には絶対に逃すことのできない好機だった。
 砂浜は白く海は浅瀬がほとんどなくすぐに深くなっているのでリゾート地のようなエメラルドグリーンとはいかずくすんだディープブルーだ。水面に魚が跳ねる。ここに来てから三食魚を食べさせてもらっている。カラフルで何という名前の魚なのかはわからない。現地の言葉はメモしているがその言葉に対応する魚が日本にいるとは思えなかった。魚ばかり食べているとバーガーキングでワッパーが食べたくなる。私は効率とか生産性とかそういう言葉が嫌いな部類の人間だと思っていたがいざそういった社会から切り離されてみると最初に食べたくなるものがファストフードなのがおかしい。波の音を聞きながら風に吹かれているといつの間にか睡魔に負けてしまっていた。
 彼は私の上に覆いかぶさって腰を振っている。見上げた先にある顔はひどく醜い顔だ。彼とは同じ研究室だった。私が院へと進学したとき彼は一般企業に就職した。今思うとどうして付き合ったのか思い出せない。近くにいて手ごろだったのかなんだったのか。剽軽で話はおもしろかったし何より顔はとてもよかった気がする。酒癖が悪くて先輩に馬鹿だとか叫んだり一人でヘドバンしていたりとか少し飲むと怖かった。ただそれ以外のときは普通に優しかったし普通にいい彼氏だったと思う。彼は顔を歪ませながら腰を振り続けている。
「別れよ」
 彼は何を言っているのか分からなかったようで目を見開いて腰を振り続けている。聞こえていなかったようで私はもう一度言う。
「別れよう」
 彼は腰振るのをやめた。なんで今そんなことをいうのかという顔をしている。確かに彼がいきそうになっているときにいう話題ではなかったのかも知れない。けれど私にとってはそれがいちばんいいタイミングに思えたのだ。彼のものがゆっくりと私の外に出た。
 目を開けると相変わらず海は寄せては帰っている。いつの間にか眠ってしまっていた。隣をみるといつの間にかハメハメハが座っている。少し驚いた身をひくとハメハメハはおかしそうに笑った。
「よく眠れましたか?」
 ハメハメハは私に島の案内をしてくれている若者だ。普段は漁をしているらしく筋骨隆々で逞しい体つきの青年だ。彼も島民なのでペニスは丸出しなのだがもう慣れた。
「待っている間に眠ってしまったみたい」
「今日は眠りの歌の風ですからね」
 ハメハメハの言い回しは直接訳すと意味がわからないことがある。比喩なのか何なのかよくわからない。この~の歌の風という言葉はしょっちゅう出てきた。
「ハメハメハ大王が待っているので行きましょうか」
 今日はこの島の王様であるハメハメハ大王に会う段取りがある。
「楽しみにしていらしたわ」
 後ろから女の声がする。声のする方を見ると中年の女性が近づいてくる。大きな乳房から長い乳首が伸びている。初めて見る人物だが名前はハメハメハだ。この島の住人たちの名前はみなハメハメハだ。覚えやすいがややこしい。今までこの制度で破綻しないのが想像できなかった。この島では自己と他者を区別しない。ハメハメハは私たちの言葉でいうところの人間という言葉が一番しっくりくるような気がする。ただ島民たちは私の名前は普通に呼ぶ。島民や島をひっくるめたものがハメハメハであるのでそこから外にあるものが他者なのかも知れない。普通であれば閉じたコミュニティであればあるほど余所者に対しては排除の方向に動いていくのだろうがここはそうではなかった。外から来た概念に対しても柔軟に対応する温和で開放的な文化のようだ。そのおかげか私も今まで危険な目にも遭わず調査を進めることが出来ている。私はハメハメハにありがとうと言うとハメハメハについてハメハメハ大王に会いに島の中央へと向かった。
 植生は一般的なマーシャルの島々と変わらない。海辺にはハマユウの花が咲いてゴバンノアシが生えている。海水に強いキバナイヌジシャも多く生えていて橙色の可愛い花を咲かせている。こういうあまり代わり映えしない植生もハメハメハ島の調査が進んでいない原因の一つなのかもしれない。
 島の中央が島民の居住区になっている。環礁型の島ではないので海辺から少し距離を置いた集落の作り方になっているようだ。家と言ってもキバナイヌジシャを枠組みにヤシの葉を敷いたり吹いたりした質素な作りだ。ここでは夜に火を焚くことはほとんどなく料理をするときにのみ使われている。
 島の中央にはほとんどの島民がいる。島の総人口は100名弱だと言われており確かにその程度の集落の規模感である。開放的な家から見える島民たちの姿はみな裸で寝ていたりどこか一点を見つめていたりする。初めて来たときから驚いているのだがここの島民たちは私に全く関心をしめさなかった。これは群がられるとかそういうことではなくて視線すらも感じないのだ。普通余所者がくれば視線を送るだろう。それが本能であるし身を守る術なはずではないだろうか。目の前をあるく筋肉の塊であるハメハメハも同じだ。私が挨拶をしてガイドを頼んだその時からようやく私はハメハメハに認識された。
 ハメハメハ大王の家もそこらへんにある家と特になんら変わらなかった。ハメハメハが家の前で声をかけると恰幅のいい中年のおじさんがまるまるとした腹を撫でながら出てきた。ハメハメハにおいて数少ない他者との区別ともいえるのがハメハメハ大王に大王とつくことだろう。もう一つ例外がありハメハメハ女王もいる。家の中で寝ている大きな中年女性が恐らくハメハメハ女王だろう。ハメハメハ大王と話す場所だがどうやら立ち話になるらしい。とても穏やかな雰囲気だ。大王と言うくらいなので何か冠やマントや派手なパンツでも履いているのかと思ったが他の島民と変わらず全裸だ。調査でそこらのおじさんと話すのと何ら変わらない。
「居心地はいかがですか」
「とてもよくしていただいています。今日はお招きいただいてありがとうございます」
「それはよかった。困ったことがあれば何でも言ってください」
 で、とカメハメハ大王は続ける。
「明日の夜、歌を歌うのです」
「歌、ですか」
「ええ、歌に参加されるかどうかを確認したくて来ていただきました。歌に参加されないのであれば明日の朝、この島から出て行ってほしいのです。ハメハメハに隣の島まで船をださせましょう。無理にとは言いません。もし明日からもずっとこの島に居たければ歌に参加していただきたいのです」
 翻訳に百パーセントの自信があるわけではなかったが言っていることは大まかに合っているはずだ。歌に参加しないのであれば帰れと言われている。それにしても急な話だ。調査だって予定していた半分も終わっていない。
「お祭りということですか?」
「お祭り?歌うのです。歌です」
 どうやらハメハメハ語に対応している言葉がないらしい。それか歌には何か別の特別な意味合いがるようだ。このあたりの詳しい事情もしっかり調査してまとめればかなりいい論文になると研究者としての私が教えてくれている。普通であれば何の迷いもなく滞在するとこなのだが私の大脳辺縁系が何かあると教えてくれている。
「なにかをする必要があるのですか?」
「いえただ歌を聞いてくれだされればいいのです。あなたのためでもあるのですよ」
 もしかすると歓迎の意味もあるのかもしれない。何よりこんなところで帰っていてはフィールドワークにならない。私は手ぶらで帰っても居場所なんてないのだ。何か成果を生み出さなくてはいけない。私の理性はいとも簡単に私の大脳辺縁系を抑え込んだ。
「ぜひ参加させていただきます」
「明日の夜、ここでまたお会いしましょう」
 ハメハメハ大王大王は大きな欠伸をしながら家の中に戻っていった。結局歌を聴くこと以外何もわからなかった。隣に立っているハメハメハに尋ねる。
「歌ってなに?」
「あなたもいつも聞いています。今だって聞こえているじゃないですか」
「私の知っている歌と言う言葉とあなたの使っている歌と言う言葉には大分距離があるようなのだけれど」
「心配いりませんよ。明日の夜になればわかることです。夕飯は私の家です。もうできているはずですから先に行っていてください」
 ハメハメハは熱心にガイドしてくれているので私が宿にしている空き家に送るまでいつも一緒にいてくれた。朝は漁をしているので近くにはいなかったが夕方や夜は何でも説明してくれている。ハメハメハのおかげで研究の進度はとてもいい。
「何かあったの?」
「網を仕掛けてから帰ります。朝になれば魚がたくさん入っているはずです」
「あなたって働きものね。先に行っているわ」
 働きものに対応する言葉がないらしくハメハメハは曖昧に笑っている。しばらく一緒にいて気が付いたことだがハメハメハはわからないことがあると今のように曖昧に笑う。言語学者としてはわからないものはわからないと言ってくれるのがありがたいが献身的に協力してもらっている以上贅沢は言えない。それに私がわかっていないのだなとわかってさえすればそこにあるのは大した問題ではない。
 ハメハメハは海に向かって歩き出した。私は食事を用意してくれているハメハメハの家に向かう。私の食事は各家々が持ち回りで用意してくれている。ハメハメハが橋渡し役になってくれている。ただ各家庭も私に拒否反応があるわけではなく当たり前のように食事を振舞ってくれていた。ハメハメハがいなくても食事は問題なく出来る気もしたが私のためだけに隣にいてくれているような気がする。ハメハメハの家は集落の端の方にある。だがハメハメハがほかの家から起きて出てくるのを見たことがある。なんとなく見ている感じ眠くなったらどこでも好きな家で寝ているかもしれない。そのくらい家に関しては適当な印象を受ける。ハメハメハには奥さんがいる。もちろん名前はハメハメハだ。私は落ちていた何かの植物の葉っぱで手遊びをしながら集落の端の方へと向かう。歩きながら島の人々を見ると大抵の人たちが眠っている。まだ明るいうちから寝ているがここではそれが普通のことだ。ガイドをしてくれているハメハメハは例外的にとてもよく働いている。恐らくこの島のハメハメハの中でいちばんよく働くハメハメハだ。恐らく勤勉だからこそわざわざ私のガイドまでしてくれているのだろう。他のハメハメハたちはお腹がすけば魚を獲って食べるしそれでことが済むのだ。食事以外のために体を動かす人はいない。コプラ産業にしても熱心に取り組んでいる様子はなくできたから売った、できなくて売れなければそれでよしとしているような温度感だ。よく肥えたお腹を上下にさせながら眠っている人々を見ると自分がどうして研究をしているのかわからなくなる。食べて寝て子供つくってそれ以上に何かするべきことが私に本当にあるのだろうか。
 ハメハメハの家に着くとハメハメハの奥さんのハメハメハが迎え入れてくれた。ハメハメハの体つきはすらりとして小ぶりな乳房につんと上を向いた乳首がついている。この島の女性はふくよかな女性が多いがハメハメハはスレンダーだ。
「いちばん青いところへどうぞ」
 人好きしそうな笑顔で私を草でつくった座布団の上に座らせる。座布団とは言ったが編むとかそんな面倒くさいことは一切していないそこらの草を積んだだけの代物だ。青々としたものに座るのがよしとされているらしく嬉しそうに私を一番青が鮮やかなところに座らせる。日本は緑の概念が薄いので青と緑がよく混合されて使われている。青信号とか青虫とか青葉とかだ。それはハメハメハとの珍しい共通点らしく緑に対しても青という言葉が当てられている。
 座った私の前にハメハメハは幅の広い葉に焼き魚を載せて置いてくれた。目で食べていいよと言っている。ハメハメハはシャイなのか口数が少ない。無言だが嫌な感じとか邪険にされている感じは伝わってこない。私はボロロロと呼ばれる魚の腹に噛り付く。白身がほろほろとしておいしい。ボロロロはハメハメハたちのお気に入りの魚らしくしょっちゅう食事に登場している。私もすっかりこの魚のおいしさになれてしまっていて夕食はボロロロがいいなと考えるようになっていた。一匹でもかなり大きくてもとが小食な私からすれば十分な量がある。米や新鮮な葉物野菜が食べたくなる瞬間があるがフィールドワークに出る時から覚悟していたことなので自分の理性で必死に抑えつける。米があればなと思いながらボロロロを食べつつハメハメハを見るとこちらを笑顔で見ている。私も笑顔で会釈する。食事中の会話はマナー違反のかとも思っていたが他の家で食べるときは全然そんな様子はないのでハメハメハに話かける。
「働き者の旦那さんでいいですね」
 ハメハメハは少し驚いた顔をして頬を赤らめながらも答えてくれた。
「いえ。ハメハメハは変わっているので」
「変わっている?」
「ハメハメハは人の分の魚まで獲るのです。魚を獲ることができなくなった人の分までです」
「優しいじゃないですか」
「自分の魚を獲ることができなくなった人は死ぬしかありません。それは先延ばしにできることではないのです。自分に必要な分よりも多くとるなんて海に怒られます」
 そういうものかと思いながらボロロロを食べる。私はこうしてハメハメハから魚を恵んでもらいながら食べている。ハメハメハがたまたま働き者で私の分の魚を獲ってくれているから飢え死にしないで済んでいるのだ。さっきのハメハメハの理屈でいけば私は死ぬしかないのだろう。私がボロロロを食べ終わってもハメハメハは漁の準備から帰ってこなかった。目の前のハメハメハはうつらうつらしている。私は軽くお礼を言ってハメハメハの家を出た。
 あたりはすっかり暗くなっている。喉が渇いたので島の水場に向かうことにした。ハメハメハ島の水場は池だ。島の北側に小さいが澄んだ綺麗な池がある。島において綺麗な水場があるのは非常に珍しい。この島では夜に火を使う習慣がないので真っ暗だ。今日は月も出ていないので星明りだけを頼りに歩いていく。人工の光がないのでこの島では星が良く見える。こういうときに目がよくてよかったと思う。夜に歩いていると東京で夜中にコンビニに歩いていったことを思い出す。隣には彼氏がいた。夏の夜に酒を買い足しにいってアイスクリームを買うあのちょっとした散歩だ。あの時彼氏も視力の話をしていたのを思い出す。目が悪い野球選手は大成しないと彼氏は言っていた。これは動体視力とか選球眼がどうとかいう話ではなく視力は目の筋力が低いと悪くなるのだから筋肉の質を指し示す指標になりうるのだと熱く語っていた。私は目がいいので野球選手になっていたらきっと大物だったと言うと彼氏は女だからそもそも筋肉量で勝てないと笑った。ショーヘイ・オータニがメジャーでも絶対に無理だと言われていた二刀流で活躍できたのだから女の私も二桁勝利をあげていたかもしれないと言うとそれなら酒が強い僕だってワールドカップの決勝でハットトリックを決めていたねと言った。酒が強いのがどうしてハットトリックを決めるのかと聞くと酒が強いのは肝臓が強いということだからスタミナがある選手なのだとサッポロビールを飲んだ。彼氏は目が悪かったので黒縁の大きな眼鏡をかけていた。日本は決勝にも行けないのが現状だけどねとまるで自分のことのように自虐的にいうのがおかしかった。日本が決勝にいけないのは相撲のワールドカップじゃないからだと言うと世界で相撲は流行ってないからねと頭を撫でられた。あの時はまだ私は彼氏のことが大好きだったなと思う。相手のとある特徴を好きになるとその特徴を上回る相手が出てきた時にすぐに目移りをしてしまうとYouTubeのショート動画で見たが、相手のどういうところが好きなのかわからないまま大好きになると別れた後にどうして彼氏が好きだったのかすらもわからなくなってしまう。墓標にはわかりやすい名前が必要なのだ。いつまでもふわふわと現世を漂ってもらっては困る。
 水場は静かで星を水面に映していた。私は両手で水をすくって飲む。インスタにでも上げたら良さそうな景色だ。彼氏は行くあてのない世界各地の綺麗な写真にハートをつけていたのを思いだす。昼間は昼間で綺麗に澄んだ池に南国植物がいかにもリゾートな感じを出している。島に水場があってしかもそれが澄んでいるというのはかなり珍しいことだ。アイランドホッピングで立ち寄った島々の飲料水は砂交じりのものがほとんどだ。私は近くの暗くてよくわからないが大きな木の根元に寝転がる。荷物はほとんど背中のバックパックの中に入っているので島のどこで寝ようが大差はない。地面は固いが気候はちょうどいい。東京の真夏にも冷房をつけられない経済力の私からすれば今の睡眠環境は整いすぎている。昼間までの疲れもありすぐに眠りについた。
 夢のなかではビヨンド・ザ・シーがずっと流れていた。ただボビー・ダーリンはいつまで経っても歌いださなかった。インスツルメントだけ延々と流れ続けていた。私は池の中を泳いでいて岸に向かって泳いでも岸は一向に近づかなかった。なぜか潮流だと思った私はその場に浮き続ける選択をした。すぐに鳥が近づいてきて私の腕をついばんでいって骨が浮かんだ。すぐあとに魚たちが私の背中をつついて脊髄が露出していくのがわかった。不思議と痛くはなかった。もうすぐ死んでもおかしくないなというくらいに骨が露出したところでこれが夢であることに気が付いた。死にいたるのにしてはあまりにも穏やかすぎたからだ。死ぬのは最大の苦痛なのだろうか快楽なのだろうか。私はとんでもない快楽物質が体中を駆け巡るのではないだろうかと思っている。
 目を覚ますとまだまだ薄暗いが確かに朝の訪れを感じさせる明るさだった。池からは水が空気中に立ち上っている。私は起き上がると大きく伸びをする。地面が固いせいで体はバキバキだ。銭湯が恋しい。私は顔を洗うために水筒に水を入れる。木の根元まで移動して顔を洗う。そのまま池で洗ってもいいのだが私の目ヤニで池が汚れるのはなんとなく嫌な気持ちになった。顔をさっぱりさせてから村の方へと向かう。
 今日はハメハメハ大王が歌を歌うと言った当日だ。なにか祭典の用意でも始まるのかと思っていたが村の様子はいつも通りだ。今日の日中はハメハメハが教師をしているという学校に参加させてもらう予定になっている。週に一回子供の希望者に向けて数や単語を教えているらしかった。ハメハメハの家に行くがハメハメハはいなかった。奥さんのハメハメハに聞くがどこにいったかはわからないという。しばらく村をぶらぶらしていると魚をたくさん担いだハメハメハにあった。
「早いですね」
「大漁じゃない」
「今日は魚の歌が響いていましたから。私にしか聞こえてなかったみたいなので私だけが大漁です」
「そんなに取ったら海に怒られないの?」
 ハメハメハはおかしそうに笑った。
「私も初めは怖かったです。ただ海の歌を聞いているうちにこのくらいはかわいいものだと言われたので気にしていません」
 確かにハメハメハ1人が担げる量ならかわいいものだと思った。
「ボロロロがたくさんとれたのでお昼は楽しみにしていてくださいね。あの小屋が学校なのであそこで少し待っていてください」
 ハメハメハが家の方に歩いて行ったので私は学校に向かった。
 学校はハメハメハの家と造りは一緒だった。黒板もなければ机も椅子もない。学校という名前がついていなければそれを学校と判断するのは難しかっただろう。学校にはまだ誰もいない。私は積まれた草の中に腰掛けて子供たちやハメハメハを待った。いくら待ってもこなかったので今までの資料の整理を始めた。単語の対応表はかなり進んだ。あとは文法の構造がもう少し詰められるといい。このままだとマーシャル語と変わらないとまとめることになるがそれではあまり研究者としておもしろくない。何か決定的な違いを見つけたかった。そう思って眺めるログは私の知的好奇心をそそったので長い時間集中力を維持することが出来た。他のことに意識が向いたのはハメハメハがお昼のボロロロを持ってきたときだ。
「おまたせしました。お昼ごはんです」
「ありがとう」
 資料をしまいながらお礼を言う。ボロロロを受け取ってハメハメハに向き直る。ハメハメハは自分の分も持ってきていて既にボロロロを食べている。
「子供たちは?」
「今日は風が吹いているので遅くなっているのです」
 確かに外はそよそよと風が吹いていて気持ちがいい。
「風が吹くと遅くなるの?」
「ええ。気持ちがいいですからね。この時間までこないとなると学校はないかもしれません」
「怒らないの?」
「怒る?何に対してでしょうか?」
「ハメハメハは準備とか時間つくったりしているわけでしょ?」
「学校は学ぶための場所です。学ぶ側が学びたくないなら無理やり学ぶ必要はないのです」
 そんなものかと思ったら特に言い返す言葉もなかったので私はボロロロを食べる。東京に帰ったときに私はこのボロロロの味だけはしっかりと思い出す気がする。
 昼食をとった後はそのまま学校でハメハメハに単語や文法を質問攻めにしていた。
「そろそろ行きましょうか」
 そうハメハメハに促されたときにはもう夜になっていた。歌を聞かなくてはいけない。
「どこでハメハメハ大王は歌を歌うの?」
「池です」
 学校を出ると村の様子はいつも通りだった。ただ人が1人もいなかった。どのハメハメハも歌を聞くために池に向かったのだろう。
「~~ないと始まってしまいます」
 初めて聞く単語だった。私がよくわからないという顔をしているとハメハメハは私の手を取って走りだした。この島で走っている人を初めて見た。子供であってもハメハメハは走らない。ゆったりしていた時の流れが急に脈打って早くなったような気分になった。遠くから甲高いがどこかけだるげな声が聞こえ始めた。
「はじまった」
 ハメハメハがそうつぶやいた。かなりのスピードで走っているので私は息切れしてしまっている。池に着くとかなりの人数が集まっていた。ハメハメハはその人波をかき分けて先頭に出た。自分を主張するということがなさそうだったので驚きながらついていく。周りのハメハメハたちは一点、ハメハメハ大王を見つめている。あの声の主はやはりハメハメハ大王だったようだ。池から煙が立ち上っている。よく見ると水面には松明が何本も浮かべられていた。汚れてしまうと思ったがハメハメハたちは誰も気にしていないようだ。
「なるべくたくさんの煙を吸った方がいい」
 ハメハメハはそう言って私をさらに列の前の方に押しやる。その扱いに驚いて振り返ると全裸のハメハメハたちのなかに見るからにこの島出身ではない姿が見られる。全裸の白人や黒人、アジア人がいるが彼らがもうハメハメハになっているのはわかる。黒縁眼鏡のアジア人がいた気がしたがすぐにその姿は見失ってしまった。ハメハメハ大王の歌が頭から離れなくなっていく。低いのか高いのかももうわからなくなっていく。不思議だが気持ちのいい響きだ。
 私は池の中にはいっていく。思いのほか深くて5mくらい進んだところで顔だけが出ている状態になる。煙は水面を這うように流れていて私はそれを思い切り吸い込んだ。吸い込むと今まであいまいだったハメハメハ大王の歌が明瞭になって頭の中に響く。水面を這う煙は魚の群れとなって私の周りを泳いでいる。跳ねる水しぶきは海鳥となって私のはるか頭上へと飛び立っていった。ハメハメハ大王の歌は世界の真理の扉を開く鍵になっていた。水面に映った星々は私に世界の言語のつながりを教えてくれていた。地球に居ながら宇宙にいけるとは思っていなかった。ハメハメハ大王の歌が盛り上がるについて宇宙の星々ひとつひとつの存在を感じた。砂浜の砂の一粒ずつの形を舌でなぞった。死ぬということはこういうことなのではないだろうか。そのくらいの快楽だった。私の後に続いてぞろぞろとハメハメハたちも池の中に入ってくる。池に入ったハメハメハたちと明確に思考が共有されていくのがわかる。私はハメハメハたちの一生を、知識を、感覚を全て手に入れた。私の全てがハメハメハに捧げられたのもわかった。
 私はハメハメハにいながら世界とアクセスすることが可能になった唯一の存在だ。もう真理の扉のその先を覗いてしまった私にはこれ以上の未来はないように感じられた。私は私の体がもうすでにハメハメハに溶けているのを感じた。私とハメハメハが一つになるのがわかった。

 南の島に風が吹く。ハメハメハ大王が歌を歌ったのだ。南の空には星が瞬いている。またハメハメハ大王が新たな夢をみたのだ。