ゾロゾロついてきてっけどさあ

 恥ずかしさがわたしの後ろをゾロゾロついて回る。記憶はけばけばしい服を着て、わたしに向かって微笑みかけ、意味のあるようなことも多少は言うものだが、羞恥とはその下で地面に向かって物言わず、じとっと広がっている影である。現在の光があまりにも眩しく記憶を照らすので、わたしは最初、その下に広がる影に気がつかなかった。記憶が歩き出すたびに、片足ずつが地面に接地するたびに、その先から斜めに伸びている。
 夜のみなとみらいの観覧車の明かりが、黒く沈む水面の波打つ上に途切れながら広がって行く様子が、わたしに逆説的にこのようなイメージを生じさせたのである。わたしは長いエスカレーターを降り、屋外に出た。冬の外気が渦を巻いてわたしを取り囲んできた。海沿いには赤いコンクリートがずっと先まで続いていた。色とりどりの記憶のなかには、私とすれ違うものもあったし、わたしと同じ方向に歩むものもあった。歩調はそれぞれであった。一見皆が楽しそうに笑い合っているかのようにも見えたが、そのなかにも、気難しい顔をしてひとり早足で行く者もあった。それらに影を落とすことのない人工的な光の列が左手に続いて見えた。この土地はまるでクリスマス・イルミネーションを中心に拡がっていったかのようであった。
 わたしはあなたのことを思い出した。それらの人工的な光が、能天気な記憶達に影を落とすことを期待した。


 わたしが映画を撮り始めてから二度目の冬だった。ちょうど映画祭用の作品の編集作業を終え、わたしがすることといったら、ただ毎日映画館に通い、朝から晩まで燃え尽きたようにぼんやりと映画を観るということだけだった。その頃は生活のための時間給労働ですら怠った。朝、あなたの家を出て吉祥寺の映画館に通い、午前中と昼からの2本をかかさずに観た。午後は体力が余っていればもう一本映画を観たし、それすらも億劫であれば公園に行ったり、喫茶店に行ったりして過ごした。そして、夜あなたが退勤する少し前には家に戻り、夕食を作り、あなたを迎え入れた。
 時にはあなたと映画を見にいく休日もあった。芸術的な才覚のかけらもないあなたは、好きな女優が出ているだとか、興行的に成功している映画ばかりを観に行きたがった。
 わたしは最初のうちそれが我慢ならなかった。同じ料金を支払い、同じ時間椅子に縛り付けられるのであれば、少しでも糧になる作品を見たいと考えるのは当然だった。芸能人の寒々しい演技や、やりすぎな表情、なんの趣向も凝らしていないカット割を延々と眺めていなければいけないのは苦痛で仕方なかった。しかし一方で、自分の生活資金が、そしていつも一人で映画を見にいくための資金がどこから拠出されているかは明らかであった。私は簡単な労働に向かうような気持ちで、あなたについて映画館へ向かった。
 映画を撮り始めてから二度目の冬ともなると、わたしはより成熟した人間になっていた。そういう、芸術のかけらもないような作品からでも、何かしらを得ることができるような、成熟した人間に。わたしはそんな作品を見ながら、時には大きな声で笑い、時には涙することさえもできるようになった。あなたと隣同士の席に座り、椅子の間に甘い香りのするポップコーンを置いて、ただ2時間の間夢中で画面を見続けた。館内に充満する砂糖が焦げたような甘い匂いが、わたしの成熟を象徴しているようで嬉しかった。
 「嘘は嘘でいい」わたしはそう思った。複雑な美しさはわかる人だけがわかればいいし、今のわたしにはどちらを楽しむこともできる。大人びた視点だった。大人びた余裕だった。わたしはそのような視点を持つことを楽しんだ。あの頃のあまりに偏狭な自分を揶揄ってやりたくもなった。
 その年のクリスマスに、あなたはわたしのために信じられない金額を投じて都内のスイートルームを予約した。それまでは毎年あなたの家で過ごすことが恒例だった。わたしが一年の中でも最も手の込んだ料理を作る日と決まっていた。その日だけ、わたしたちは馬鹿みたいなテレビを見ることもなく、ただうるさいだけのポップ音楽をかけることもなく、暗闇の中で過ごした。そういう日だった。
 しかし、その年はなんだか様子が違っていた。あなたは珍しくクリスマスのためだけに休暇をとった。わたしにはその意気込みが嬉しかった。ホテルに荷物を置いた後、わたしたちはなんとかいう読めないし発音もできない名前の洋食の店に向かった。
 「こういうのは、あまり好きじゃないかもしれないけれど」一品目の料理が運ばれてくる前に、あなたは私を見てこう言った。わたしにはそれがなんだか、あなたがまだわたしの中に、美に対する偏狭さの名残を感じているように思われて、擽ったいように感じた。確かに、かつてのわたしなら、こういうものをくだらないと思っただろう。人工的な微笑を浮かべる給仕にも、わざとらしく雰囲気を演出する暗い照明にも、そして周囲の、趣味の良い、決して派手ではない装いの客達にも。服装に三つも原色が含まれているのはその店の中でわたしくらいのものであった。わたしの色たちは暗い照明と物静かな会話に囲まれて、都心の猫のように息を殺して潜んでいた。
 「そんなことないよ」とわたしは言った。「嬉しい」
 「嬉しい?」
 「わたしのために頑張ってくれて」
 頑張ってくれて、という言葉自分の口から出るが恥ずかしくて、少し目を伏せた。ナプキンは綺麗に折り畳まれ、鈍く光るナイフの表面にわたしの顔の一部が反射するのが見えた。頑張る、という言葉は、ずっと避けていた。わたしの辞書の中で嘘っぽく響く言葉の中でも、それは蠍座の一等星のように目立っていた。
 「そうなの、頑張ったね」ちょうどその時、横のテーブルの会話の一部が聞こえてきた。まるでカクテル・パーティー効果だった。上品な出立の家族連れが息子と思しき子供を褒めていた。今年は彼にとって頑張った一年だったのだろう。逆上がりができるようになったのかもしれないな、とわたしは考えた。
 「最近のきみは少し様子が変わったような気がする」とあなたが言った。「以前は、わたしが見たい映画に連れて行っても、まるで興味のない様子だっただろう?それが、今ではなんだかそれをかなり楽しんでいるように見えるし」かなり、という部分をあなたは強調した。「それに出演している人たちのことだって、随分わたしよりも詳しくなったみたいじゃないか」
 あなたの言葉に心配しているような調子が感じられたのを、わたしは訝った。
 「でも、それっていいことだと思うよ」
 「確かに、わたしにとってはありがたい」とあなたは同意した。「わたしと同じものを楽しんでくれるのは嬉しい。でも、それがきみを損なってはいないかということが、どうやら心配なんだ。以前のきみはわたしには名前も聞いたことのないような監督の、えらく旧い映画ばかり見ていただろう。最近もちゃんとそういうものも見ているのかい?きみはわたしには理解もつかないような感覚を持った映画監督なんだから」
 最後の部分は、純粋にわたしのことを讃えているようにも聞こえたし、冷たく突き放しているようにも聞こえた。わたしは後者の可能性を案じた。
 「大丈夫だよ」わたしは曖昧に答えた。
 「わたしの好んでいるような映画は、なんだか嘘っぽいと、きみは常々小馬鹿にしていた」
 「小馬鹿になんかしてない」
 「あれは、していたよ、明らかに」
 あなたにとって何がそんなに心配なのか、わたしにはわからなかった。しばしの沈黙の間にウェイターがやってきて、主菜の説明をした。あなたはわたしから目を離してにこやかにそれを聞いていた。わたしは腹が立ってきた。
 「嘘っぽくてもいいじゃん。そういうものはそういうもので、いいの。今のわたしにはそのどちらもある種の世界だと感じられるの」ウェイターが足音もなく去った後、わたしは少し語気を強めて言った。
 「それに、そういう世界のなかにいる人たちの方が、この世の中には多いんだから」
 かなり、大げさに響いた。
 「わたしはそちら側の人間だし、きみはそうじゃない側の人間じゃないのか」
 「今のわたしにはどちらの世界も信じられるよ。なんというか、わたしにとってそれがいかに嘘っぽくても、その世界自体は嘘じゃないでしょう?最近そのことにやっと気がついたんだ。そこにはたくさんの人がいるし、経済も回るし、例えばサンタクロースを信じる子供達のように、いつかそれが嘘だと思ったとしても、それを信じていた時間自体は本物なんだから」
 あなたは黙った。わたしには誰かを言いくるめた時の激しい満足感があった。わたしが長らく感じていたことが、やっと言葉になって整理されたような感覚があった。わたしの最後の台詞が他人の言葉のように何度も脳内で反響した。それはかつて忌み嫌っていた邦画の仰々しい言い回しに似ていた。いつかそれが嘘だと思ったとしても。
 帰りのタクシーの中を、街のイルミネーションの光が出入りした。彩度の高い様々の色がわたしのけばけばしい服の表面に反射した。少し酔ったあなたは静かだった。眠っているのかもしれなかった。わたしは料理店での会話を反芻していた。
 ホテルの近くまで来た時に、あなたは唐突に言った。「さっきのことについて、考えていたんだけど」わたしは驚いてあなたの顔を見た。「それまで信じていたものが嘘に見えてしまった時は、嘘を信じていた時間はやっぱり本当に、勿体無いものだと思うよ」
 それを聞いた瞬間、わたしは心から、恥ずかしくなった。それまで座っていた高位から優しく引き摺り下ろされたような気がした。タクシーが角を曲がった時、その嘘っぽい光の群れもわたしから逃げるように、斜め後ろに向かって去って行った。


 横浜の海を見ながら、空に星を探す。上空は雲に覆われて、全く見えなかった。あなたは今頃、あの時の時間は無駄だったと思っているだろうか。それが気になった。わたしは遠くで波の上を滑っていく大型客船に気づいた。沖の方は、地上のあまりの明るさに負けてしまって見難い。わたしはあのように音もなく、どこか暗いところを滑りながらひとりで進んでいく気がした。それでも光の粒は去っていくし、記憶からにじみ出た影は私の後を、ゾロゾロゾロゾロついてきてっけどさあ。