ドラマとかで食事のシーンがあるとある人を思いだす。思いだすといっても会ったこともないし顔も声も性別もなにも知らない。あんな人がいたなととにかく思い出すのだ。
通信制のシナリオスクールを受講していた。ためにはなったが自分で本でも読んで作ってる方がずっとましだなというのが正直な感想だった。映画「スクールオブロック」で主人公が潜入した学校で「3流だから教えるんだろ?」的なことを言っているがまぁその通りだろうと思う。映画自体は教育の喜びというか売れなくったって音楽との関わり方には色々あるんだぜみたいなところに着地するからそこを否定するつもりはない。教える側のシナリオを読んだこともないし経歴だって知らない講師からなにを教わることがあったのだろうとは大金を払った後に感じる。その講師が受け取ってるマニュアルをこちらに横流ししてくれれば済む話だろと今になって思う。だから教科書的なのはためになっているからそれらを受講せずとも読めばいいと思う。創作仲間が出来てよかった的なことをいう輩がいるが甘えるな犀の角のように進め。とまでは言わないが金払ってまで仲間作ってどないすんねん。他にもやること色々あるやろ。セラピーでも受けにきとんかおもろいもん書かんかいな。とにかく講座の内容に関しては自分で本でも読んでた方がよっぽどましだろということだ。
話を戻すと月2くらい課題を郵送でやり取りをしていた講師がやたらと食事シーンにこだわる人だった。俺は一度も提出した課題に食事シーンを入れなかった。講師の方も直接食事シーンを入れましょうと言ってくるわけではないし表面的には和やかなやり取りだったように思う。向こうからしてみればこちらはお客様(仲間とか同士みたいな言い回しはしていたが)な訳で過剰なまでに褒めちぎってくる。こういうワナビー相手を気持ちよくする仕事ってストレスたまるんやろうなと思いながら講評を読んでいた。だからこそ相手の講評に“この登場人物は食事をとらない妖怪のようなかんじなのですね“のような明らかに食事シーンがないことの揶揄だろみたいなのがあると嬉しくなって吹きだしていた。良くも悪くも揶揄と言うのは相手を舐めてないとできない。相手にはこの手の揶揄はどうせ分からんのだというちょっとした毒。こういう感じで毎回食事シーンがないことに言及しているのが唯一なんかその人のこだわりみたいなのが感じられて面白かった。なんでそこまでこだわっているのかは結局聞けなかったしよくわからなかった。確かに状況とかセリフとかつまらないときは飯でも食わせとけば間が持つのは分かる気がする。ただ今はそこの修行をしている訳ではないのでそういうズルを覚えるのはもうちょっと別の話かなと思っていた。下手な役者には煙草でも吸わせておけというのが古くから言われているが現代人は煙草をあまり吸わないのでスマホでもいじらせとけくらいに置き替えることが出来るだろうか。とにかく画面を持たせる技術といのは大事なのだが訓練しているのはそこじゃないんよなという良く分からない反骨精神で絶対に課題には食事シーンを入れることは無かった。
ああだこうだ言ってはいるが食事シーンは目茶苦茶好きではある。何を食って大きくなったとかってセリフを使わずにどういう奴かを表現できる。シャレードとしての食事の優秀さはずば抜けてる。坂元裕二のドラマを最近観たがそこでもやっぱり食事シーンはマストだ。
大人になってから一緒に住みでもしないと話すなら飯でも食いながらがスタンダードだ。コロナでその文化も大分なくなってしまったような気もするが。会社の人と仲良くなるのも業務を通してというよりも昼飯を一緒にいったりとか飲みにいったりとかそういう飯を囲んでの方が多い気がする。
仕事のやり取りとかビジネスマナーとかそういった社会人なら当たり前とされる皆ががんばって後から獲得した形質を取っ払ったところにその人らしさとか面白さは転がっているように思っている。そういうのが見えるからと思って知らん奴の飲み会とか軽率に行って後悔するんよな。
食事シーンはとにかくいい。いいからこそ創作ワナビーが安易に手を出すと痛い目を見る。食事してるからそれっぽく見えてるがそれを取っ払うと大した会話書けてないとかざらだろう。セリフもいいのが書けてる上で食事までさせているから強いのだ。飯食えばいいこと話した気持ちになれるが本当にそうかもう一度確認する癖をつけたいぜ。
とにかく飯はいいよなと思う。食ってるときは幸せだもの。あの満腹感は何にも代えがたい。うまいものが食いたい。