漣のリズム

 「飯、連れてってもらえませんか」と声をかけられた。
 「はい?」
 「もしよかったら飯、連れてってください」青年はもう一度言った。
 時期尚早の暖かい風が吹いていた。人はまばらで、それぞれが世間の大多数から抜け駆けて、この少し早い海岸日和を謳歌していた。すでに泳いでいる者も数名いた。
 砂浜は、理想的なベージュというよりは黒みがかった粒の大きい砂で、東側が海、西側に幹線道路が走っていた。砂浜と幹線道路のあいだには、ゴツゴツした岩の連なる一帯があった。私は久しぶりの休日を、その岩の一つに座って、バーベキューをする家族連れや、海水浴をする若者の群れや、tiktokを撮影する女子高生たちを、ぼんやりと眺めていた。西側から降り注ぐ太陽光が、人間たちの向こう側で、波の揺れに反射して所々できらきらと光った。肉を焼く匂いが強くなったり、弱くなったりした。
 そんな中私に声をかけてきたのは、二十代前半に見える、背の低い男だった。紺色のスポーツメーカーのナイロンジャケットを、ファスナーを一番上まで閉めて着ており、太いベージュのチノパンツをはいていた。金髪に染めたやや長い髪に私は良からぬことを感じ、少しどきりとしたが、彼の顔をよく見ると、そこには悪意や、いたずらをしているような雰囲気は感じられなかった。彼はどちらかというとのっぺりとした、それでいて人懐っこそうな顔立ちをしており、少し困っているような表情をしていた。
 「もう二時ですけど」私は驚いていたので、本来それより先にくるべきであろういくつかの疑問をすっ飛ばしてしまった。
 「かまわないんです。おじさんはもう昼食べたんですか」
 おじさん、と呼ばれたことに引っ掛かりを感じた。初対面の人間と話したのはいつぶりだろう。最後の記憶では、確かまだお兄さんと呼ばれていたはずだ。確かに私は、もう三十代も後半に差し掛かってきていたのだが、若く見られることが取り柄だった。私は頬にまばらに生えている髭を撫でた。
 「それは、まだ」と私は言った。
 「だったら、ちょうどいいじゃないですか。一緒に行きませんか。おじさん、見ないけど、この辺の人ですか」
 「いや、東京に住んでいるんだ。今日はちょっと遊びにきているだけで」
 「美味いところ、知ってますよ」
 確かに、私も腹が減っていた。昼、目が覚めたときに、海が見たいと思い立ち、ここまで都内から二時間弱車を飛ばしてやってくるまでの間、食事をすることも忘れていたのだ。家族連れのバーベキューの匂いがまた強まってきた。
 「もちろん、自分の会計は自分でするんで」
 私はまだこの青年の意図を掴みかねていたが、ゆすり、たかりの類ではないだろうことはなんとなく感じていた。どうして、見知らぬおじさん——私は心の中の声でも、自分のことをおじさんと呼称した——と一緒に飯が食べたいのか、そこのところは相変わらずわからなかったが。知らない人に声を掛けることが苦でないのなら、女子高生にでも声をかければいいものを。女子高生の方をもう一度見ると、彼女たちは何度も同じ動きを繰り返していた。満足がいくものが撮れるまで動画を撮り直しているようだった。
 「JKと行きたいですか」彼は私の目線に気づいて、からかうように言った。
 「そんなことはない」
 「男ですみませんね」
 私は、それ以上は何も言わず、彼を自分の車まで案内した。若い人間とのコミュニケーションを欲していたのかもしれない。自分が老け込んだことを不意に実感し、その若いエネルギーを少しでも自分の中に吸収しようとしていたのかもしれない。私たちはしばらく無言で、砂浜を歩いた。私と青年が一歩踏み出すたびに、足は砂浜に少しだけ沈み込み、やや粒の大きい黒い砂がサンダルと足の間に入ってきた。私たちはしばらく無言で歩いた。次第に波の音が遠ざかって行った。
 「いい車じゃないっすか」車に到着したとき、彼は無遠慮に言った。


 私は青年に案内され、小さな定食屋の駐車場に車を停めた。看板にはここの地名と、ドライブ・インという文字が大きく印刷されていた。駐車場は店の規模に不釣り合いなほど広かった。この辺りにはあまり公共交通機関が通っていないので、地元の人間は何かの折によく車でここを訪れるのだろうか、と私は想像した。
 十分ほどの道のりだったが、青年と私はあまり話をしなかった。それぞれの簡単な自己紹介をしたあとは、青年は窓の外を眺めているようだった。それでも意に介さないような雰囲気があった。私は、この男は何をしたいのだろうか、と思っているうちに店に着いてしまった。
 車を降りると、青年が先に店の中に入って行って、二人です、と告げた。
 店は数名の中年の女性によって運営されているようだった。靴を脱いで上がるタイプの座敷席が六席あり、そのうち三席は埋まっている。ちょうど良い流木を削って作ったような、黒々とした木のテーブルが各席に置かれていた。少しくすんだ白の壁には、白の手書きのメニューと、地元テレビ局のタレントによるサインが飾られていた。会話を邪魔しない程度の、かといって控えめすぎない音量の音楽が、天井の角に置かれたスピーカーから流れていた。
 私たちは入り口から二番目の座席に靴を脱いで上がった。青年は脱いだ靴を丁寧に揃え、私を上座へ行かせた。
 四十代くらいの女性の店員がやってきて、水を置いた。ちょっと慣れていないような所作だった。
 「お決まりですか」それを聞く早さから、ここはやはり地元の人間がよく訪れる食堂なのだろうなと思った。
 「もう少し待ってください」と私が何かを言う前に、青年が言った。
 店員が去ってから、メニューを開き、こちらに向けた。
 「やっぱりこのボリューム丼っすね」
 青年が指差したのは、大きな丼の上に唐揚げやフライがたくさん乗っている料理だった。私は、折角海まで来たのだから普通、刺身定食とか、海鮮丼だろう、と思った。しかし、彼はここに日常的に住んでいる上、そこまでの気遣いが期待できるというものでもなかった。
 「ボリューム丼二つでいいでしょ」
 青年は店員を呼び止め、ボリューム丼を二つ注文した。注文を終えると私の方に向き直った。一通りの手続きを済ませたので、ここから会話に入っていかないといけない、という一種の緊張感があった。車の中とは違って、お互い向かい合っている。この見知らぬ男と何を話せばよいのだろう。
 「この辺りに、魚を操る少女がいるってこと、知らないでしょう」私の心配をよそに、青年はニヤッと笑って言った。魚を操る少女。私はその響きに興味を持った。水を大きく一口飲んだ。大きな塊となって喉から下へ、食道を通って胃に向かう流れが感じられた。店内に流れている音楽が、サザンオールスターズの名曲のインスト版であったことに、私は気づいた。


 その夜、青年はいつものようにあの海岸を、散歩に出かけた。寒いが風はほとんどなく、波の音がよく聞こえた。青年は海岸に沿ってゆっくりと歩いた。幹線道路にオレンジ色の街灯が、ぼんやりと幻想的に光って見えた。道路の反対側に見える海には高い月が上り、水面に光を落としていた。その光は幹線道路の街灯とは対照的に、冷たい色をしていた。時々大型トラックが、大きな唸りを上げながら通り過ぎていった。
 青年はふと、前方に見える砂浜への階段に、人影が見えることに気づいた。ひとりの少女だった。これほどまでに遅い時間に何をしているのだろうかと、青年は訝った。彼女は全身真っ黒の服を着ていて、海の方をぼんやりと眺めているように見えた。背中側から街灯のオレンジの光が当たって、砂浜の方に淡く影を落としていた。
 「その時、僕は『気づかれたくない』ととっさに思いました」青年は私に語った。「ひとつには、僕が日課としている深夜の散歩では、あまり誰にも会いたくなかった、というのもあります。その時間は僕にとって誰にも邪魔されずに自分と向き合える時間なのです。でも、それ以上に」
 青年はここで少し言葉を切った。どう表現したものか迷っているような感じだった。
 「怖かったのです、あんな時間に少女が一人で海沿いの海岸に座ってぼんやりと海の方を見ているということが。そして、あの少女から出ていた、ある種神秘的なオーラのようなものが」
 私と彼のボリューム丼が運ばれてきた。それはメニューの写真通りだった。もしかしたら、メニューを上回る”ボリューム”かもしれない。飲食店によくある、メニューの写真だけが立派で実物はそれより遥かに劣っている、というようなものではなかった。私は、青年が海辺で抱いていた底知れぬ恐怖心と、その話を聞きながら食べるこのキャッチーで豪快な料理との対比を面白く思った。
 青年は箸で乱暴に丼の中身を混ぜながら話を続けた。
 彼女を見て青年は、いつもの散歩コースを完了させることは諦め、もときた道を引き返そうかと一瞬思った。しかし、彼女が海の方を見つめる様子は、どこかしら心惹かれるものがあった。青年はそれに背を向けてしまうことがどうしてもできなかった。幸い、彼女の方ではこちらに気づいていないように見えた。青年はしばらくの間、彼女から目を離せないまま、そこに立ち尽くしていた。
 すると、海の方からぴしゃっ、という音が聞こえた。青年が海の方を見ると、冷たい月明かりで照らされた水面に漣が広がっていくのが見えた。波の合間にありながら、その漣ははっきりと力強さを持って広がっていった。青年は一瞬、少女が何か海に投げ込んだのかと思い、再び少女の方を見た。しかしそれはありえないはずだった。少女は身動きひとつせず、じっと海の方を見つめていたのだから。
 また音が聞こえた。青年が再び海を見ると、それは魚だった——魚が跳ねている!今回は二度、三度と連続して魚が跳ね、その音が大きく響いた。青年はそれまでにも、時々海の上を跳ねる魚を見たことがあったが、その時の魚の様子はそれらとは大きく違っていた。普通、魚が跳ねるときには体を横倒しにして、何かの拍子に海から間違って出てきてしまった、というような様子で跳ねる。しかし、この時の魚は、頭が真っ直ぐ上を向いて、まるで空を目指すように跳ねるのだ。また跳ねた。一度に二匹、三匹ずつ、まるで示し合わせたかのように跳ねている。魚の腹が月明かりを受けて複雑に光った。水平線の見通せない暗い海で、海岸と魚との遠近感を、少年は失った——大きな魚が遠くで跳ねているようでもあり、小さな魚が近くで跳ねているようでもあった。
 青年はしばらく、それを見ていた。少女に気づかれたくないという注意も忘れ、ただその美しい光景を眺めていた。同時に跳ねる魚の数が、四、五匹と増えていった。着水の音が微妙にずれ、奇妙なリズムを生み出した。その音は青年に、昔どこかで聞いたアフリカの民族音楽の、パーカッションの複雑なリズムを思い起こさせた。青年は、そこに生命を感じた!
 しかし、その音楽は唐突にやんでしまった。次から次へと発生していた漣が新しく生まれるのをやめ、最後のそれがいっぱいに広がっていった。青年ははっとして、少女がいた方を向き直った。そこに人影はなかった。少女は、青年に気づいてか、気づかずか、姿を消してしまっていたのだ。そしておそらくそれに合わせて、魚も跳ねるのをやめてしまった。しばらくして、幹線道路にトラックがまた一台通った。その人工的なエンジン音は、魚が跳ねる音の大きさを遥かに凌駕して、青年の耳に長い間残響音を残していった。
 「まさに、魚を操る少女、でしょう」青年は笑って、言った。「あれからも毎晩海岸沿いを散歩していますが、彼女に会ったのはあれが最初で最後ですね」そう言って唐揚げを口に運んだ。
 私は、深夜の海に飛び跳ねる魚の群れや、月明かりを受けて光るそれらの腹の輝きや、それらがたてる音や、リズムや、水面の漣の広がりを想像した。そして、それを操る、全身黒尽くめの少女についても。
 「近所の友達にこれを言っても、誰も取り合ってくれないんです。『俺もよく夜釣りに行くけれど、そんなもの見たことがない』と言って。でも僕はこの話を誰かにしたくて仕方がありませんでした。考えてみてください、その少女が釣りをしているような人間の前に現れると思いますか?」青年は真剣な様子で言った。
 私は味の濃い唐揚げをゆっくりと噛んだ。確かに、深夜に釣りをしている人間の目の前に、それが現れることはないのだろう。