18歳

 18歳に戻ってから二週間が経とうとしていた。
 二度目ともなると、生活は比較的容易だった。僕はまず、野球部を辞めた——続けていても芽が出ないことは分かりきっていた。初めての18歳の時に僕は、何を考えたのか夏まで野球を続けてしまい、勉強も部活も中途半端なまま不本意な受験を迎えたので、同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかったのだ。僕の退部はさほど驚きを持って迎えられなかった。予想通りではあったが、僕は当時から大した戦力として見られていなかったことを悔しく思った。
 勉強の方も、一度目の時よりは断然簡単に感じた。数学や物理など、大学時代を”思い出して”みれば、高校の内容などお遊び同然だった。僕は大学で培った貯金をふんだんに発揮し、その二教科ですぐにクラスのトップレベルに躍り出た。教師も友達も、数日での僕の変わりように驚いた。
 僕は時々死のことを考えた。巻き戻したとはいえ、カセットテープにはいつか終わりが来るものだ。むしろ二度目の18歳は、自分が死へ向かって進む大きな流れの一部であることを否応なしに再確認させた。しかし、こうやって達観した日々を送ることを、僕は虚しいとは思わなかった。むしろ心躍るものに感じた。やっておけばよかった、と思ったことを全てやっておこうと、やらなくてもよかった、と感じたことは早々にやめておくのだと、決心していた。そうした二週間は大人時代から持ち帰った時間感覚をもってしてみてもかなり長く感じた。青春のうちにいることを自覚し得ぬ者に流れる時間の遅さに、僕は驚いた。


 そうやって今日も、七限の授業を終えて帰り支度をする僕に、珍しく話しかける者がいた。
 「川行こや」
 隣のクラスのきりんと、はりねずみだった。どちらも二度目の18歳を迎えた僕が適当につけた渾名だ。きりんは一年生の時に早々に野球部を辞めた背の高い男だった。野球部をすぐに辞めたにも関わらず卒業までずっと坊主頭のままでいた。無口だが時折気の利いた冗談を口にする男で、女子からの人気もなかなかのものだった。はりねずみは将棋部か何かに所属している、小柄な男だった。かなりの直毛で若白髪が混じった色素の薄い髪が天を目指して生えており、サイズの合わないダボダボの学生ズボンをいつも引きずっていた。僕と、きりんと、はりねずみは、同じ方角に家があることから、時折一緒に下校する仲だった。
 「部活は?」と僕は聞いた。
 「今日は休むわ。最近全然遊んでないやろ。こんな生活続けてたら疲れるって」はりねずみが答えた。僕ははりねずみの向こうに、太陽光をふんだんに吸収する南側廊下の大きな窓を見た。良い天気だ。雲のない濃い青空が、地方都市の街並みの上に広がっていた。
 僕たちは自転車に跨り、三人で校門を出た。高校の前の広い道路に沿って、歩道を、きりんとはりねずみが並んで走った。僕はひとり後ろからついて行った。はりねずみのダボダボのズボンが春の風を受けパタパタとはためいた。
 僕たちは田舎道へと進んだ。ここから山の方角へ向かっていくので、少し上り坂になる。僕は18歳に戻ってから、下校のたびにこの道を呪いながら進んでいる。大人になれば、こんなに辛い思いをしながら移動することなどないのだ。


 上り坂のところで僕とはりねずみが並ぶ格好になった。
 「最近よう勉強できるらしいやん。やっぱり部活辞めたら違う?」とはりねずみが聞いてきた。
 「うーん、どうかな」と僕は曖昧に返事をした。
 「この前の模試、D判定だったんよ。このままじゃ志望校変えんといかんわ」
 「この時期のD判定位どうってことないやろ。こっから上がるもんやし大丈夫だと思うで」
 それを聞いたはりねずみが苦笑いしながら「何がわかるん」と言った。僕も心の中で苦笑した。確かに、この時期を迎えた生徒にしてはひどく偉そうな口調だ。
 「もうちょっと上のほういこ」きりんが先頭から僕たちにそう言った。
 ここからは通学路を離れる。僕は故郷の川を久しぶりにじっくりと見た。東京の川とはやはり違う。水が透き通っている。薄いブランケットのように優しく波打ち、太陽の光を反射させている。山の麓である対岸は護岸されておらず、曲がった木の根が水につからないギリギリのところに幾重にも重なって見えた。時々木の枝や葉がくるくると回転しながら流れていく。上流を目指す僕たちの心は踊り、舗装が甘い道の上を進むスピードもやや早くなる。
 「この辺に停めよか」本格的な山道に入って少し行ったところで、きりんが大きな声で言った。
 僕たちは山道の途中にある退避路のようなところに自転車を止め、少し歩き、石造りの小さな橋のところまできた。下にある川を見下ろすと、そこで川幅が急激に広がっていた。それは、白い石に囲まれた天然のプールだった。流れの中でそこだけ落ち込んだように少し深くなっており、水の色がエメラルドグリーンから中央に行くにつれて深い青へと変化している。流れもその部分で急激に遅くなっており、水面の縞模様も消え、不気味にのっぺりとしていた。


 「飛び込もか」きりんが言った。
 僕とはりねずみはきりんに気づかれないままちょっと目を見合わせた。ここから飛び込む?僕はもう一度橋の下を覗いてみた。橋の上から水面までは、約四、五メートルほどもあった。
 「なに、のんびりしとん」
 きりんはすでに学生服を脱いでパンツ一枚になり、今にも飛び込みそうな体勢で川を見下ろしていた。威勢はいいが、やはり実際に川面を覗き込んでみると怖くなったとみえ、僕たちにも早く服を脱ぐように促すことで時間を稼ごうとしていた。きりんは黒いボクサーパンツを履いており、それは野球部時代の筋肉が落ちてしまった色白の腹の下で、妙に対比されて映った。
 はりねずみと僕は、とりあえず学生服を脱ぎ始めた。時間をかけるように学ランのボタンに手をかけ、ひとつひとつ、決して急がず、しかし時間をかけているようにも見られないように、外していった。僕たちが全部脱ぎ終わるのを、きりんは待った。
 「俺、先行こか」
 そう言ったのは、はりねずみだった。僕ときりんは驚いた。はりねずみは仲間内でも、いつも引っ込み思案な男と考えれられていた。僕たちは普段から、彼を少し下に見ているまではなくとも、いつも僕たちについてきているだけの男、と考えているようなところがあった。そんなはりねずみが、僕たちを上回る勇気をここで発揮しようとしている!
 「そんな高くもないやろ」
 そう言って、はりねずみは下を見た。もう日はだいぶ傾いて、時々冷たい風が服を脱いだ僕たちに容赦なく当たった。風が吹くたびに川面が不気味に揺れた。もう僕たちを受け入れる準備を済ませているのだ。
 はりねずみが大きく息を吸い、飛んだ!黙って、不恰好に、しかし確実に。彼の足が空中で少しバタつくのがスローモーションのように見えた。はりねずみの小さな体が、水面に向かって少しずつ小さくなった。はりねずみは足から着水した。川はそれを受け入れ、しんとした山の中にその音が大きく響いた。白い泡が周囲に弾け飛んだ。はりねずみはその体を一瞬水の中に沈め、再び浮かび上がってきた。そしてそのまま平泳ぎで川岸に向かい、その後こちらを見上げた。
 「早よ、来いよ!」自信に満ちた声だった。彼はやり遂げたのだ。他の誰も見せなかった勇気を見せたのだ。
 「俺、次行っていい?」
 きりんが言った。彼ははりねずみに負けたことが悔しかった。そして間髪を容れず、そのまま飛んでしまった。きりんははりねずみよりも落ち着いた体勢で、しかし素っ頓狂な声を上げながら飛んだ。彼の声と着水の音が混じって、山は先ほどよりも大きな音を立てて揺れた。


 僕一人が橋の上に取り残された。僕は——そう、最初の18歳の時、僕は飛べなかったのだ。川の下で二人が待っている。僕は飛ばなければならない。冷たい風が幾度も当たり、僕は少し震えた。飛べば、楽になれる。しかし、足が言うことを聞かない。下の二人は自分の勤めを果たした。安心しきって、待ちくたびれて、それでも期待を込めて僕を見上げている。
「行け!」きりんが叫んだ。
 僕は背中から太陽に照らされて、目の前から川の中へと落ちる長い影を見た。それから、一度目の18歳の時のことを思い出そうとした。ここからどうやって、飛ばずに終わったんだっけ?みんなはどんな顔をしたんだろう。その後僕はどんな気持ちでみんなと過ごしたんだろう。覚えていなかった。続いて、その後の人生が断片的に思い出された。飛べなかった僕は中途半端な受験をし、大学に行き、卒業してそれなりの社会人になった。飛べなかった僕は、飛べないままゆっくりと、死へと進んでいく——。
 ——ほんとうに、そうだろうか?
 風が止んで、僕は背中に太陽の暖かさを感じた。なんで今まで、僕は死に向かって進んでいると勘違いしていたんだろう。僕にもやっと分かったのだ。僕は、死なない。死とは、本当にどれだけ遠くにあるものだろう!大人になれば、それは僕たちから限りなく近いところにある。病院が、駅のホームが、高速道路の車の群れが、絶えず僕たちを誘ってくる。いつでも僕たちを飲み込む準備のできている灰色の流れが、周りを流れている。今僕は、それらから何千キロも離れたところにいるのだ。そこには沈みかけている柔らかな色の太陽があった。再び静けさを取り戻し、僕が飛び込むのを今か今かと待ち構える川面があった。その下に広がる、青い水で満たされた空間があった。僕たちの叫び声をかき消す針葉樹林があった。そして、川岸で僕のことを待つきりんとはりねずみがいた。
 大きく息を吸った。動かなかった足が、一歩前に踏み出して、欄干を超えた。僕は永遠に生きていた。僕は18歳。怖いものなどなかった。