消臭しとけ金柑の香り

 海と山の間の狭い土地に田んぼがぎゅうぎゅうに詰まっている。変わらないなと電車に揺られながら思う。時々防砂林の松が途切れるタイミングで見える海は鈍く光っている。手持ち無沙汰で何となく開いたパソコンのワードファイルは書いては消し書いては消しで結局白紙のままだ。向かいあった席に座った買い物帰りなのだろうばあちゃんが座っている。買い物袋は何をそんなかに買ったのかというくらいぱんぱんに膨らんでいる。スマホに着信が入る。恩師からだ。連結部に行って電話に出る。
「旅路は順調ね」
 平坦なのに最後のね、に置かれたイントネーションに帰ってきた実感が沸く。
「ありがとうございます。時間通りに着く予定です」
「ごめんね!ちょっとうるさくてなに言ってるかわからんわ。用がある訳じゃないから!駅で待っちょるからね!なんかあったら電話かけないよ。それじゃあね!きりです!」
 相変わらずマイペースな人だと思う。講演会の依頼をされたのは3ヶ月前のことだ。見知らぬ番号から掛かってきたのは懐かしい地元の方言だった。10年前に卒業した高校時代の担任だ。珍しそうな職業の卒業生に片っ端から連絡を取っているらしい。俺の講演なんて需要ないですよというが講演なんてそんなもんよと強引に押し切られて参加が決まった。俺は小説家をしている。前途有望な若者たちに小説家になることを薦めるような講演はできないなと思った。小説家になってしまうのは計算高いと思っている馬鹿か元々世間とのチューニングがずれてるやつだけだ。何を話そうかと迷いに迷って結局まだ決まり切っていない。明日なのにまずい。担任にはとりあえず“高校生のみなさんへ”という毒にも薬にもならないテーマで送っている。どうしたもんかと思いながら席に戻ると何があったのかばあちゃんが金柑をぶちまけている。俺も金柑の回収を手伝う。小さく丸いもんだから車内に散らばっている。そこらへんの高校生たちも総動員で拾ってくれている。人が多いのは素晴らしいことですぐ回収が終わる。ばあちゃんは恥ずかしそうにみんなにお礼をいって座りなおす。
「ありがとうございました」
 そういってばあちゃんは金柑を差し出してくる。落ちてたやつだよなと思いながらも受け取る。
「そんなにたくさんどうするんです?しかも金柑って買うものですか?」
 余計な御世話だったかなと思ったが職業柄かどうでもいいところが気になる。
「焼酎につけるの。甘くなっておいしいよ~保存も効くし。実家の金柑なの。毎年この時期になると分けてもらいにいくの」
 このばあちゃんはなまっていないので驚いた。地元に帰ってきてばばあなのになまっていないのは何だが気持ちが悪い。その印象が大きすぎて当たり障りのない返答をする。俺は金柑を袖口で何度か磨いて口の中に放り込む。金柑の皮の清涼感と酸味を噛みしめていると中身の果肉の甘さが追いつく。
「おいしいです」
 お世辞でも何でもなくそう呟いていたようで、ばあちゃんは嬉しそうに次の1個も手渡してくる。悪いなと思いながらも手は進む。何個も食ってると口の中の感覚が変になったっけなと思いだす。3つ目の金柑は苦みが強かった。近所にあった金柑はこんな味だった気がする。苦みが口の中に広がるのと同時に昔のことを思い出した。急に手が止まった俺を心配そうにのぞき込んで来るばあちゃんに笑顔で会釈して4つ目を食った。

 田んぼの横を通る度に白飛びした光が眩しい。外には凶悪な光が降り注いでいるのが分かる。車内はキンキンに冷房が効いていて窓の縁の金属部分に腕の皮がくっついてしまいそうだ。英単語帳を開いてはいるが頭に全くはいってこない。同じページを開いてもう何駅も経つ。車内はがらんとしている。自分以外誰も載っていない。貸し切りだ。地方の在来線は通学する学生がいない時間に乗ればこんなものなのだろう。停車してドアが開いて誰も乗ってこないという風景を単語帳の同じページと同じ時間だけみている。だからこそ同じ制服を来た女が乗って来たときには思わずそちらを見てしまった。女はいくらでも座る場所があるのにわざわざ俺の座っているボックス席の向かいに座った。俺が無視を決め込んでいると女はローファーで軽く俺の足を蹴った。
「サボり?」
「ただの遅刻です」
 女の襟元には青い校章が付いているので1学年上だ。ムカつくが年上には敬語を使うという純粋さが俺にはまだあった。女はつまらなそうに俺の単語帳を取り上げた。
「懐かしいねぇ」
 こいつはやばい奴だと思った。ここが文明社会じゃなきゃぶん殴られる可能性が高すぎる行動だろ。顔面が良くなきゃ許されてないぞ。
 女はひとしきり眺めて単語帳をこちらに差し出してくる。
「邪魔したね」
 ぶっちゃければ熟読していた訳でもないのだが迷惑そうに受け取る。俺が最低限の言葉を返していないのにも関わらず女は話続ける。
「私はサボり。暑いなと思って朝だらだらしてたらどんどん気温が上がっていくでしょう?それでだらだらがずっと続いてしまってもうこんな時間。なんなら朝に暑いなと思っていた時の方がずっと涼しかったような気がするのだから面白いものよね。それにしても冷房効きすぎじゃないこの電車」
 目の前の女は気持ちの悪いイントネーションで喋った。地元の人間じゃないのか。誰も聞いていないのに肯定的に話を続けられる自信はどこからやってきているのか。
「けど私2両しかないこの電車可愛くて好きよ?人も少なくて快適だしね。自動改札じゃなくて乗務員に切符みせて降りるのも趣があっていいわね。それにしても寒くない?」
「暑いのが嫌やったんやろ?」
 あんまり寒いアピールをしてくるのと敬語を使うことへの馬鹿馬鹿しさがあったので自然と口をついて出た。俺が話したのが意外だったのか何なのか嬉しそうに笑っている。相手のペースに乗ってしまっているのがわかり、しまったと思う。
「それはそれじゃない?いくら暑いところだからと言ってこれはやりすぎよ。地球温暖化問題だってあるわけでしょう」
「だからって冷房かけんと窓開けてはしっとったら怒るんやろ?勝手な理屈やわ」
「本当にあなたってああいえばこういうのね」
「どっちがね……」
 自分の話を肯定的に聞いてくれない相手に対して嫌気が差したのか女は黙りこんでしまった。そのまま無言で学校の最寄り駅に到着する。立ち上がって扉が開くのを待つ。開いた途端熱気が体を包む。さっきまでいた冷たい空間との差が相まって心地よい。無人駅なので運転手に定期券を見せて車両の横を通過する。線路の向かいには幹線道路が走っていてびゅんびゅん車が通過していく。地面からの熱気ですぐに体中汗まみれになる。この不快感と比べれば多少寒いくらいは我慢するべきだろうと思った。幹線道路を歩道橋で渡るとさっきまでアスファルトまみれが嘘のように田んぼや都市林で緑の多い場所に変わる。影が増えて水場や木の葉が近くになったからか心なしか涼しく感じられた。このまま大きな川を渡している橋を過ぎれば学校に着く。話こそしないが女は俺の隣をくっついて歩いていた。覇気のない歩き方をしている女がとけると呟いたのがわかった。ほらみたことか結局暑いなら暑いで文句をいうんじゃないか。俺は少し得意になってあるいていると隣の女が急に立ち止まった。立ち止まったかと思うと女は学校とは反対の方向に歩き始めた。
 おいと声を掛けるが女は気にせずにずんずん進んで行く。さっきまでの歩き方とは打って変わって背筋が真っ直ぐ伸びている。クソ暑いのに勘弁してくれと思ったがこのまま学校に行ったって暑いのは暑いので緑の多い方に向かっている女について行くことにした。女は神社の前で立ち止まった。この神社は敷地が広くて半分以上が木々で構成されている。何が目的は全くわからないままに入って行ったのについていく。鳥居を向けて参道を真っ直ぐに行けばすぐに着くが脇に伸びる道を行けば森の中につながる遊歩道になっている。女は真っ直ぐには行かずに脇の道へ入る。小さな社が点々と見える。そのいくつかある社の内、1つを選んで近づく。小さな社に用があるのかと思ったがそれには近寄らず脇に生えていた木に近づく。近づいてからようやく気が付く。
「この木って?」
 女はこちらを振り返って尋ねた。
「柑橘系の花だしたぶん金柑だと思う。冬になったらここらへんで食べちょった気もするし」
 女はふーんと言ってしばらく眺めていた。濃い緑の葉に白くて小さな花がびっしりとついている。犬みたいな鼻をしているなと思った。俺は近づいてようやく気が付いたくらいの匂いだ。元々そこまで匂いの強い木じゃない。
「金柑って食べたことないのよね」
「変わっちょるが」
 よく考えれば気持ちの悪い話し方をしているしここら辺の人間じゃないのかもしれない。金柑なんてよその地方でもそんなに珍しいものでもないだろうし都会っ子なのだろうか。
「別に珍しいもんでもないし、冬にまた来たらええやろ」
 それもそうねと女は神社から出て行った。俺もそれについて行こうとしたら女は立ち止まった。
「付いてこないでくれる?」
 やけに不機嫌そうな顔をしていた。女はそのまま真っ直ぐに歩いていく。さっきまであんなに構ってほしがっていたのに訳が分からないと思った。俺だって学校に行くのだから女と同じ方向に歩いていくのだ。俺は時間を空けることにした。金柑の木の側に行く。ここまで樹高が高い金柑の木も珍しいのではないだろうか。俺は木に寄り掛かって座った。白い花からはいかにも柑橘系らしい爽やかな香りがした。その香りはいかにも涼し気だったが何だか勘に触って目の前の白い花をちぎって投げた。遠くまでは飛ばずに俺の制服のズボンにはらはらと落ちた。

 女とは結局顔を合わせないまま1ヶ月が過ぎて夏休みになった。電車でも学校でも会うことは無かった。学校は全校生徒が3000人以上いるマンモス校だったので何となくわかるが、電車通学している奴はそこまで数が多い訳ではないので不思議だった。この夏、地元は大きな台風の被害にあった。高校の近くにある川は溢れて何千戸も浸水した。夏休みに入っていたので遠方から通っている俺にはニュースの中の出来事でしかなかった。学校も避難所として使われていたらしくて長期休暇中の使用は制限されていた。それでも夏も終わりに近づくころには学校の避難所としても役割も全うして生徒のためへの顔を覗かせ始めていた。俺は部活をしている訳でもなかったし特段用事がある訳でもなかったが普段とは違う仕事をしていた学校を見てみたいという野次馬根性で足をのばした。
 電車の復旧は早かった。ローカル線だからしばらく動かないだろうと思っていたが1週間ほどですぐに通常通りの運行を始めた。復旧したと言っても乗客の数が増える訳ではない。部活に向かう学生と年寄りしか乗っていない車両はがらがらだ。もう8月も終わろうとしているが外はまだまだ暑いし何ならここからが暑さの本番だともいえる。アスファルトからめらめらと熱気が立ち上っているのが見える。道路を渡り田んぼや都市林を抜けると大きな橋に差し掛かる。この橋も台風の時は浸水手前まで行ったらしい。落ちるのではないかと本気で心配していたリポーターの顔が思い浮かぶ。土建屋はしっかりした仕事をしていたらしくしっかりとその形を保ったままだ。
 橋の半分ほどを渡るところで爽やかな香りがした。金柑だ。あの女の顔が思い浮かんで辺りを見渡した。もちろん女はいないし辺りに金柑の木もある訳がない。川を除き込むと柱に枯れ草が絡まっているのが見えた。橋を渡り切ると土手に降りて川岸に向かった。川岸に降りたらすぐに柑橘の香りがどこからしたかがわかった。橋の下にはえらい量の木が根こそぎ流れついており川岸を埋め尽くしていた。実をつけた木が橋脚に引っかかっていてそこから匂いがしているようだった。近づいて行くにつれて匂いが強くなる。近づくとそれは金柑ではなくて夏蜜柑の木であった。川上に果樹園でもあったのだろうかという量だ。濁流の中を泳いできたのだろうが実はたわわに付いたままだ。俺は足元にあった木から夏蜜柑をもぎった。片手に収まるサイズで皮は泥にまみれていた。たしか夏蜜柑は実と花を同時につけるのだったよなと思いだすが白い花はさすがに流れに耐えきらなかったようだ。
 あの犬のように鼻のいい女もここに来たのだろうかと思う。ここまで匂いが強いと逆に興味がわかないだろうか。いや、この光景は都会にいては絶対に見れないだろうからきっと見に来るだろう。だがこれは金柑ではないしなと考えて馬鹿らしくなる。俺は夏蜜柑を橋脚に投げた。一直線に壁に当たって爆ぜた。
 いつもの通学路に戻る。相変わらず日差しは強い。橋の下は涼しかったようで引っ込んでいた汗もすぐにまた首筋を垂れ始める。鼻の下の汗を拭う。指から夏蜜柑の残り香がした。あの女はこの匂いで俺のことを見つけてくれるだろうか。俺は無性に手を洗いたくなった。

 なまってないばあちゃんの金柑を食ってるうちに目的の駅に着いた。高校時代にほぼ毎日使っていた駅だ。扉が開いて冷たい風が顔に当たる。雪は降らないがちゃんと寒い。無人駅で降りる人間もちらほらとしかいない。駅の前の小さな駐車場にキャラバンをとめた担任が手を振っているのが見える。軽く会釈を返す。結局電車の中でも講演会で話す内容は思い浮かばなかった。女のことを思い出しただけで終わってしまった。あの後一回も会うことはなかったし、女の名前も分からずじまいでもう顔すらもはっきりとは覚えていない。俺はまた大きく手を振っている担任に軽く手を振りながら近づいて行く。きっと車内ではマシンガントークにさらされるのだろう。その何十歩かの間に今回の講演は何もおもしろいことはなかった高校時代について話すことに決めた。何とかなるぜみたいな当たり障りのないことでしめてしまいそうな気もするがいいだろう。実際俺の高校時代には何もなかったのだから。金柑の匂いがするのではないかと思ったが排気ガスの臭いしかしなかった。