葛飾北斎と、量子論と、アイリッシュパブについて

ポルトガルに到着して一週間がたち、授業も大体要領がわかってちょっと気を抜くようになってきた。マネジメント基礎の講義はかなりゆったりとしたリズムで流れることもあり、クラスの様子をぼんやり眺めていると、隣の学生が落書きをしていた。それは、なんと葛飾北斎の浮世絵の模写だった。

有名な、富嶽三十六景の波の絵である。単に日本の絵が好きなのだという。うまく事が進めば、5月に日本をテーマにしたイベントやるからおいでよ、と彼は言った。あのゴッホをはじめとして、浮世絵が海外でも知られているということは少し知っていたが、まさか隣のポルトガル人の落書きにそれを見るとは。

しかし、その高い波の絵は僕に別のことを思い起こさせた。


映画「ミスター・ノーバディ」の主人公ニモは、「起こった可能性のあること」すべてを思い出として持っている。無数の選択(たとえば、両親の離婚後父についていくか、母についていくか、といった)によって枝分かれしていくすべての人生を彼は経験している。

僕がこの映画を見たのは約一か月前であり、正直なにを言っているのか全く分からなかった。その後あることを調べていて量子論に少し触れ、その奥深さに気づかされることになる。

有名な「二重スリット実験」という実験がある。その実験から得られる結果を乱暴に要約すると「量子は粒子であり、しかも波である」ということになるが、正確さを犠牲にして分かりやすく言うと、「物質は、観測されるまでは通る可能性のある所すべてに同時に存在している」ということになるだろうか(これについてだけでひとつ記事が書ける)。これはミクロの話であり、今わかっていることからだけでは僕たちの見ている世界にそのまま当てはめることはできないそうだが、僕は科学者ではないので――あくまで科学的考察とはまったく別物である――好きに当てはめて考えてみることができる。

つまり、僕たちの人生もすべての可能性を含んで流れているのではないか、ということだ。

人生はよく道に例えられるが、実は波なのではないか。そこにはあらゆる選択があり、あらゆる可能性がある。すべてが同時に流れている、ということが、道との違いだ。

その可能性のほんの一部が「いま、考えている自分」なのだと考えてみる。僕たちは必死に漕ぐことはできるが、道を切り開くことなどできない。自分が通ってきた跡を見て、自分が切り開いた道だと容易に言うことはできない。「これは自分で決めた道だ」ということがあるが、はたして「自分で決める」とは何を意味するのやら。「スラムドッグ$ミリオネア」では…と、キリがないが、つまり生まれた時点で道が決まっている(自分次第で変えられる、という感覚を持たない)人のほうが、おそらく世界には多いのだから。

授業で横になった人に話しかけて、たまたまリヴァプール・FCのファンで、次の試合を観戦しに一緒にアイリッシュパブに行くことになった、ということ。リスボンの人は殆ど英語を話すのでポルトガル語はあまり勉強しないかなと思っていたら、フラットに英語が全くできないブラジル人が二人越してきて、勉強せざるを得なくなったこと(嬉しいことだ)。留学中は、自分が作ったわけではない流れに飲まれていると感じることが多い。いや、日本でもそうなのだろうが、留学ではそれを強く感じられる。もしかしたら、O・ヘンリの「運命の道」のように、最後に流れ着く先は既に決まっているのかもしれない。それにしても少しの違いが、どの方向に流れていくのかを決定づけてしまうなぁ、と。

そんなことを考えていたら、授業に完全に置いて行かれてしまった。