『夜間飛行』と『インターステラー』、進歩と犠牲

サン=テグジュペリの『夜間飛行』は、かつて航空機の夜間就航が危険で、一般的ではなかったころ、著者が自らのパイロットとしての経験を生かして執筆した作品である。

クリストファー・ノーラン監督の2014年公開の映画『インターステラー』は、終焉に向かいつつある地球から他の惑星への移住の可能性を模索するというストーリーだ。

最近触れたこのふたつの物語の共通点と、それらから感じられることを少しメモしておこうと思った。各作品の展開には触れていない。


進歩

せっかく、汽車や汽船に対して、昼間勝ち優った速度を、夜のあいだに失うということは、実に航空会社にとっては、死活の大問題だった。

夜間飛行, サン=テグジュペリ

『夜間飛行』の序文と本文に一度ずつ現れる文章だ。航空会社が(小説で描かれているのは今もおなじみのエールフランスである)、夜間飛行の実現をいかに重要視していたかというのがわかる。そして、困難にもかかわらず夜間飛行の業務を続けることは、本文中で”勝利”と表現されている。人間が前に進み続ける姿を描いた作品だ。

一方の『インターステラー』も、基本的に人間の技術の発展による居住地域の拡大、つまり人間の進歩を扱った映画だ。終わりが近い地球と運命をともにするのではなく、何か足掻かなくてはならない。この意志は、何度か引用されるディラン・トマスの詩に象徴される。

Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day,
Rage, rage against the dying of the light.

Do not go gentle into that good night‎, Dylan Thomas

犠牲

『夜間飛行』ではパイロットの危険な飛行が詩的に描かれる。しかし構成からして主人公と言える人物は、実はパイロットではない。リヴィエールという、地上の管制室の支配人だ。リヴィエールはともすれば冷酷にも思えるリーダーで、夜間飛行の遂行だけを生き甲斐にしているといっても過言ではないほどだ。厳格なルールに則り、時に部下を容赦なく解雇する。

そのリヴィエールが、ある部下の問いに悩む印象的なシーンがある。

その問とは:夜間飛行は多くの危険や犠牲を伴ってはじめて実現するもので、橋やダムの建設でさえもそうだ。誰かの生命に代えてでも遂行するべき事業があるのか。

これを受けてリヴィエールは以下のように自問する。

人間の生命には価値はないかもしれない。
僕らは常に、何か人間の生命以上に価値のあるものが存在するかのように行為しているが、しからばそれはなんであろうか?

夜間飛行, サン=テグジュペリ

リヴィエールはその後”人生の解決策は前進にあり、その力を創造していくしかない”と振り切る。しかし、自問に対する直接の答えは出せないままだった。

『インターステラー』の大きなテーマも、人類の発展のために犠牲になる命である。選ばれた何人かの人間が、死の危険と隣り合わせの宇宙へと旅立つことになるのだ。

終盤、重要なシーンで登場する”ニュートンの運動第三の法則”が、この映画の大きなテーマをあらわしていると思う。”前に進むには、後ろになにかを置いていかなければならない”ということだ。


これら二つ、すなわち”進歩”と”犠牲”を根底とするのは、非常に西洋的な価値観だと思う。つまり、人間が自然と戦い、(半ば積極的に)犠牲を払いつつも前へと進んでいくということを重視しているのだ。

それに対して、東洋的な価値観がある。人間は自然と対峙するものではなく、むしろその一部である。すべてを包む自然の中で憩う、ということに重きを置く。

これらを学校でどのように習ったかと思い出してみる。東洋的な価値観の方が一歩優れているかのような教えられ方をしなかったか。達観しているというか、精神的に一回り上であるかのようなニュアンスを感じた覚えがある。

それは『インターステラー』に対するこちらの批判的な感想にも表れていると思う。

http://movie.maeda-y.com/movie/01927.htm

この映画における「人類」がとる行動について私たちが感じるのは、アメリカにしろイギリスにしろ大国的発想とは相いれないな、ということだ。足るを知る者は富む、といったのは老子だが、彼らは今こそ、この言葉を思い知るべきである。

ノーラン監督はきっと無敵感に満ちたポジティブな人物なのだろうと、これを見ると強く思う。永遠の成長を信じて疑わぬその前向きな発想には敬意を払うが、そうした欧米的価値観はもはや時代遅れだ。人類文明の発展速度は飛行機の発明以来、誰が見ても停滞している。永遠の成長などはない。足りなくなったら、食う量を減らせと思うのが我々日本人の発想である。そもそもまともな人は、そこまで贅沢などしたくはない。

超映画批評「インターステラー」55点, 前田有一

永遠の成長など望めないのは事実だろう。それに現時点で無理な開発が問題を引き起こしていることだって多い。

しかし今、僕らが享受しているものはすべて、誰かが犠牲になって前に進んだ結果である。『インターステラー』はまだ現実味の無い話としても、『夜間飛行』はその体験が元になった厳しい描写と、リヴィエールの問いかけが切実だった。そして僕たちは、何も考えずに飛行機で眠りにつくことができる。

文明の発展速度が低下しているのなら、そのための犠牲はだんだん少なく、目に見えなくなってきているのかもしれない。しかしそれに伴って、西洋的な価値観に対する敬意のようなものが、ゆっくりと忘れられてきてはいないか。二作品から、そう考えた。