「惜しい惜しい!さあここだぞー、勝負どころ!いいぞー来たー!!!」
「きた!行ける!行け!行ける行ける行ける!よし!やったー!!!」
「焦るなよー、焦るなよー、そうだ!よし!」
「いやこれ解説じゃないやん」と僕は一緒に競技を見ている友達に言った。そうして笑っていた。ほかにも、実況者が日本のライバル国のミスに対して、本当は嬉しくてたまらないが公平な立場を崩さないように抑え込んでいる、そんなようすなども可笑しかった。
そうやってオリンピック中継をいくつも見ていく中で、いつからだろうか、NHKの解説が解説でなくなるとき、ただ選手への応援の声が漏れてしまっているだけのようなときに、心のなかが膨らんでいっぱいになり、ビリビリと痺れるような感じを覚えるようになったのは。
“不要不急”という言葉がいたるところで使われていた時期があった。執筆時点でも使われているが、いっときほどではない。その時期僕はインターネットで、「私の仕事は不要不急なのか」といういくつかの声に触れた。それを見て、文化とコロナ禍での社会生活のバランスのようなものについて自分なりに考えるようになった。
コロナ禍でロックダウンされた、例えばイタリアやスペインの都市で、道路をはさんでアパートの住人たちが合唱したり合奏したりする場面が、ニュースなどでも伝えられたことがありましたね。吉見さんは、「それが非常に印象に残っている。それこそまさに文化の本質じゃないか」というような話をされていました。
(中略)
われわれもふだんストレスの多い毎日を送りながら、好きな曲を口ずさんだりすると、コロナ禍だからこそ心にしみることもあると思うんです。人によって程度の差こそあれ、音楽やスポーツっていうのは私たちの人生や生活の一部になっているということを、意味していると思うんです。
https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/my-asa/IJUR4cR1T2.html
文化の価値の重みと、新型コロナウイルスのリスクを天秤にかけることは不可能だ。新型コロナウイルス感染症は場合によっては命にかかわる病気なので、一般的に考えればリスクを最小限にするような生活が望ましいのは言うまでもない。オリンピックを開催することのリスクを考えて中止を求める声が上がるのは当然だと思う。僕は医療現場の状況について、安全な場所からニュースを見ているだけなので、実際にどのくらい過酷なものなのかは想像に余りある。
しかし一方で、出場する選手のご両親は、たとえ大きなリスクがあろうともオリンピックを開催して、子どもが世界の舞台で活躍するところを満員のスタジアムの中で見たいという考えをもつのではないだろうか。その考えは社会的に”正しくない”のかもしれないが、持つことは許されないだろうか。オリンピックに出場する選手のご家族が何を考えて、選手とどのような人生を歩んできたのか、大会を目指してどんなつらいことを乗り越えてきたのか、こちらだって想像を絶するものであることは間違いがない。
新宿駅東口でオリンピック開催に抗議する運動があり、その中で拡声器を通って響いてきた一節がとても心に残っている。
「いったい日本が何個金メダルをとったらオリンピックをやめても満足なんですか」
それは冗談めかした発言だとは思うが、想像し得ぬものを単純な構造ではかりにのせるような、その短絡を僕は怖いと思った。
そうやって、選手が背負っている想像もできないようなもののほんの一部分を、僕は冒頭に書いたようなシーンで感じているのかもしれない。
オリンピック中継の解説者は、多くの場合その競技のOB、OGである。柔道のある選手が階級で約20年ぶりの金メダルを取った後、解説の方が確か以下のように言っていたと思う。
「私もとれませんでしたからね、こうやって若い人が獲るのを見るのはうれしいですよ」
僕が見て応援していると思い込んでいる競技の数分間など、そこに至る歴史や関わってきたたくさんの人々のほんの最先端でしかないことを感じる。競技の用語も、”解説”という立場も超えてしまうような熱量、「行け!」の中に、どれだけの人々の思いが乗っていることか。みんな応援してんで、よかったな、大変やったんやろうなあ、よかったなあ。涙腺がゆるむのは歳のせいばかりではない。NHKの解説が解説でなくなるとき、その普段ではなかなか感じられないような熱量は、間違いなく僕の生活のかけがえのない一部になっている。