Summer Salt

 彼女の瞳は朝の光を反射してきらりと輝いた。これはくさい比喩ではない。彼女の瞳は物理現象としてキラキラと輝いているのだ。柔らかな手を握りながら話を聞いていると体温の高い生き物と無機質なものの組み合わせはどうしてこんなにも合うのだろうかと思う。そんな瞳で見つめられるもんだから僕は気恥ずかしくって自分の顔をあちこち触ってしまう。どうして彼女は俺のことをそんなに見つめているのだろうか。それはきっと付き合っているからだ。僕には付き合うってことがどんなことを意味しているのか分からない。だからよくは分からないが付き合うってことには彼女が俺のことをじっと見つめるということも含まれているのだろう。

「レースの影を床に落とした朝の光が部屋に溢れていた」

 そう言って彼女が差し出すのは俺が貸していた文庫本だ。涼し気なブルーを基調にして二人乗りした男女の絵が中央に描かれている。彼女はその中の一節をそらんじている。これは気に入った時の合図だ。俺もこの本は割と気に入っていたので素直に嬉しい。

 趣味の合う綺麗な彼女、朝の綺麗な光、閉じた空間に二人っきり。ここが病室であることを除けばこれはかなりロマンチックなシチュエーションなのではないだろうか。彼女は薄いブルーのパジャマに身を包んでいる。袖から覗く腕は細く白い。

「けど病人にこれを貸すのはどうなの?このヒロイン死んじゃったよ?」

 彼女はおかしそうに笑っている。確かにこのヒロインは不治の病で死んでしまう。入院中の彼女に貸すにはデリカシーがなかったと慌てる。

「いや、そういうつもりがあったわけじゃなくって。ほら、泣ける系がいいって言ってたから。どうしてもそういうのって人が死んだりするじゃん」

 彼女は意地悪そうな目で笑う。

「へー、どうだかね。……少し眠るわ」

 そう言って彼女はベッドの中にもぐりこんだ。

「しんどい?」

 ベッドはもぞもぞと動いたが返事はなかった。僕は持ってきておいた別の文庫本をサイドテーブルに置いて病室をあとにした。

 彼女は少しずつ塩になっている。

 脚の膝から下は既に真っ白な結晶になっている。足の指は関節から折れてしまってもうすでにない。膝上まで進行すれば関節は脆いのですぐに膝から下は折れてしまうだろう。今は大分落ち着いたが足の指がぼろぼろと崩れているときの彼女の取り乱しぶりはすさまじかった。足の進行の方が速いのはこの病気では運がいい方らしい。しかしじわじわと死の恐怖が近づいているとも考えられるので皮肉なものだ。

 そう彼女は死ぬ。あと1か月の内に必ず。彼女が17度目の誕生日を迎えることも、彼女が生まれた日に降っていた雪を見ることもない。近いうちに目も耳も塩になってその機能を果たさなくなるだろう。

 この1か月は彼女のために使おうと決めていた。目に塩の浸食が認められてから彼女は本を読みたがった。映画を観たがった。本当は外に出て色々と見て回りたかったのだろうが、自分の病気が外出を許されないことを理解していた彼女はそれら好んだ。

 彼女が起きていられる時間もどんどん少なくなっている。今日も過去最短の面会時間だ。気丈に冗談を言っている彼女を見ていると忘れてしまいそうになるが些細な変化が僕に覚悟を求めてくる。

 病院の外に出ると肌に日差しが刺さる。真っ青な空はすぐそこにありそうなくらい近い。

 いつものように病室に入ると上半身を起こした彼女が座っている。ただ立ち振る舞いがいつもと違う。笑った彼女の視線がこちらを向かない。それだけで見えていないことが分かった。覚悟していたはずだが何と言っていいかわからず立ちすくんでしまう。

「私、ついに見えなくなっちゃった」

 そう言って笑う彼女の瞳は真っ白になっていた。

 俺はベッドに腰掛けて彼女の手を握る。

「ごめんね、借りていた本が読めずじまいだね」

「大丈夫だよ、俺が読み聞かせてあげるから」

 彼女は俺の顔に手を当てる。そして形を確かめるように優しく触った。

「どんな顔だったかも忘れちゃうのかな」

「今、覚えちゃえばいいよ」

 頬に鈍い痛みが走る。しばらくして彼女が僕の頬に爪を立てていることに気がつく。彼女はその感覚を確かめるように僕の血を指先で弄ぶ。

「あなたは塩じゃないのね」

 そう言って彼女はひどく傷ついた顔をしてほろほろと涙をこぼし始めた。

「ごめんなさい、私ったらひどいことばっかり。余裕がなくなっちゃってバカみたい」

 僕は彼女の涙をぬぐう。

「いいよ、僕の前で取り繕うことなんてないのだから」

 彼女の涙は留まることをしらない。綺麗なアーモンド状の瞳から涙が一粒、一粒はっきりとこぼれ落ちていく。僕は嗚咽する彼女の背中をさする。

「瞳が塩になっても涙は出るのよ。覚えていてね。私の代わりにずっと覚えていてね。お願いだからね」

 そう言って彼女は何度も僕に自分のことを覚えているように懇願してくる。

「わかったから。ほら、これ以上泣くと瞳が涙で完全に溶けちゃうから」

 そう言うと彼女は少し笑って目元をぬぐった。

「そうね。それは困っちゃう。顔は綺麗に塩にする予定なのだから」

 また頬をすーっと涙が伝う。俺はそれを舌ですくいあげると彼女が短い悲鳴を上げて驚く。

「ちょっと何してるのよ」

「ほら、こんなしょっぱい涙は君しか流せないだろ。僕はこの味をずっと覚えているよ」

 彼女が僕の手を強く握り返してくる。

 彼女自身の力で彼女の指がぼろぼろと崩れるのがわかる。僕の手の中には指の形をした塩が握らされる形になった。彼女が僕に頬ずりをするとさっきの傷が染みた。僕の耳と彼女の耳がぶつかって可愛い形の耳が僕の足元に転がる。彼女が僕と唇を重ねるとその唇はざらざらと固かった。彼女の声が次第に要領を得ないものになっていく。もう彼女に僕の声は届いてはいないのだろう。

 彼女の影を床に落とした夏の光が部屋に満ち溢れていた。