サマーソルト

 いつものようにベランダで煙草を吸うと、吐いた煙が真っ白のまま、なかなか広がっていかなかった。僕はおかしいな、と思って、息を吹きかけたり、手で掻いたりしてみたが、煙は消えるどころか入道雲のようなかたちに集まってきた。やがてそれは人体の形になり、はっきりとした顔ができてきた。まるくて愛嬌のある顔だ。遅れて中央部分が奇妙に膨らんだ手足と胴体が完成した。それは僕にミシュランのキャラクターを想起させた。
 「最近一吸いしたらすぐ捨てよるな、お前は」とミシュランが言った。「もったいないで」
 「はあ」僕はいきなり注意されたので驚いた。それから、こういうやつにはなんと話しかけたらよいのか、自分のこれまでの人生を振り返って最適解を見つけ出そうとしたが、その試みを完了させる前に次の言葉が口をついて出てきてしまった。
 「あの、なんですか」
 失礼なことを言ってしまったかな、と心配した。
 「失礼やな」
 「すみません」
 出てきていきなり僕に二回注意してきたそれは、しかし、とても自然な関西圏のアクセントで話す。さらに、よく見ると従順な子犬を思わせる目をしていた。
 「空飛びたいとか思わんの?」とミシュランが言った。「とか」の使い方をとってみても、僕と同世代の人間のものによく似ていた。話しぶりがあまりにも自然なので、内容の突飛さに気付くのがやや遅れた。
 「空?」
 今日の空は青かった。僕は昼まで寝ていたので、雲一つない晴天であったことに初めて気が付いた。その青はとても平面的で、脂肪分の多いアイスクリームのように、真夏に味わうには濃すぎる感じがした。高度によって青の濃さが変わらない空だった。この三階のベランダから見える東京郊外の住宅の屋根瓦は、空との境界でかろうじてその色を保っているように見えた。あと少しバランスが崩れただけで、屋根も青く浸食されていきそうな気がした。
 「とりあえず空飛びたいなら準備してこいや」ミシュランがつまらなそうに言った。これまで何人もの人間に空を飛ばせてきた、という口ぶりだった。
 「準備……」
 「できとんか?ほなもう行くで」
 「ちょ、っと待ってください!」と僕は言った。「どういうことかわかってないです」
 「お前のいつもの愛煙家活動にささやかな感謝をしたんねん」ミシュランが急に違和感のある言葉遣いをしてきた。僕は”アイエンカカツドウ”を自分のなかで漢字に落とし込むのに苦労した。
 「いっつも吐いた煙見ながら、こんなふうに飛びたいなー思てんねやろ?」
 そんなことはない。
 「ちょっとだけその気分味わわしたるから、行こうや。降りるときは『サマーソルト』言うてくれたらすぐ降ろしたるから。この合言葉だけは覚えときや」
 降り方に言及されたことで、”空を飛ぶ”ということと僕の日常がどこかでリンクしたような感触があった。まるで凧につながった紐のように、それはこの奇妙な物語と現実の生活とを斜めに結ぶ効果をもたらした。
 「お、行く気になってきたんやな」ミシュランは僕の表情の変化を読んだらしい。僕はなんと返したものかわからず黙っていた。
 「ほな」とミシュランが言い、両腕を上に伸ばして頭上で手を合わせた。するとその体が縦に引き伸ばされ、短い飛行機雲のような形になった。そして一直線に僕のへそのやや上あたりをめがけて突っ込んできた。僕は思わず右足から後ずさり、エアコンの室外機に勢いよくぶつけた。


 「ほな、飛ぶで」とミシュランが言った。その声は方向性を失い自分の中から聞こえてきた。風邪をひいて寝込んでいるときに自分の鼓動が聞こえてくるときのような響き方をした。しかしミシュランは僕の身体の一部ではないので、その声が内側から聞こえることはなんとなく不快であった。僕は映画で体が乗っ取られるシーンのように、いちおう目の前に手を広げて左右を見比べてみた。目に見える変化はないようだった。
 体が、ジャッキアップされる車両のようなスピードで浮かび上がっていった。ベランダの壁の高さほどに浮かんだところで、僕は本能的にどうすればよいのかわかり、体を前に倒した。すうっと体が前に進み始めた。僕の住む街が眼下に流れはじめたが、不思議と怖くはなかった。
 「ちゃんと降りられるんですよね?」と僕は聞いたが、それは恐怖からというよりも、どちらかというと、感動を他人と共有するときに言葉数が多くなる現象に近いものだった。とりあえず何かを話したかった。なんといっても、今僕の話し相手はミシュランしかいないのだ。
 「降りれるで。『サマーソルト』言うてくれたら、必殺技決める前の仮面ライダーみたいに、空中で一回転させたるわ。そしたら斜めに落ちていくから、ええ着地場所見つけや」
 「仮面ライダーわからないです」
 「なんやねん」
 僕は眼下に住宅街を、ビル群を、道路を、車の群れを、緑の塊を見た。飛んだ、ということに感動はしたが、結局のところ景色自体はインターネットで見る航空写真や、飛行機の窓から見るものとあまり変わらなかった。僕は空中でスーパーマンのように右のこぶしを突き出してみた。乾いた腕がひりひりと焼けるのを感じた。
 「せっかく飛んでるんやから、なんかしてみたいことはないんかい」とミシュランは唐突に言った。
 「どこにでもいけるんですか?」
 「いけるよ。速よ飛びたくなったら飛行機より速よしたるから。自分海外旅行にもろくにいったことないねんから、この機会に外国の街みてみいや」
 「すごい」僕は驚いた。そして冗談めかして言った。「他になんかできたりしないんですか。雨降らせるとか」
 「まあ……」とミシュランは少し考え込んでいるような様子だった。「天気とかはな、まあある程度好きにできるで」
 「ある程度」と僕は言った。
 「試しに、雨降らせてみたろか」とミシュランが言った。
 「お願いします」
 すると空が、その平面性を保ったまま、まるで写真の経年劣化を早回しにしたみたいに、徐々に彩度を失っていった。目に見えなかった空中の水蒸気が凝集し、黒みがかった雲となった。それに伴って、街に点在する大きなビルの影がぼやけ、不確かになり、街全体にしみこんでいった。僕の腕にひとつ、ふたつ雨粒が当たり、すぐに大雨になった。日常生活で感じる雨と同じ感触なのに、包み込むようなザーッという音がなく、ほぼ完全な無音の中にいるのが気味悪く感じられた。
 「すごい」僕はもう一度言った。そしてあるアイデアが浮かんだ。
 「そういえば、今四国は水不足じゃないですか」と僕は言った。雨は音を発していないのに、僕の声だけが少し大きくなった。「地元なんですよ。ちょっと雨降らせに行きましょうよ」
 「まあええけどやな、もったいなない?他にもっとみてみたいとことかないんかい」
 「四国行きましょう」僕は頑として言った。
 僕とミシュランは速度を上げて四国に飛び、同じように瀬戸内海に面した街々一帯に雨を降らせた。
 「聖人やな」ミシュランが言った。「下の人らみんな感謝しとるわ」
 「ほかのところも雨降らせることできます?」と僕は言った。
 「できるけどやな、お前の……」
 「行きましょう」と僕はミシュランの発言を遮って言った。
 それから僕とミシュランは、雨を必要としている地域を回って恵みの雨を降らせ続けた。文字通り、”僕の”恵みだ。僕はニュースにとりあげられていた場所を思い浮かべながら、日本中を、世界中を回った。ろくな梅雨がなく水不足にあえいでいた長野県の葡萄園に大量の水やりをし、カリフォルニアの叢林火災を消化し、干ばつに苦しむ南スーダンの家庭に水を供給した。そのたびにミシュランが「ええことしとるやん」「みんな喜んでるで」「ようそんなん知ってるな」と褒めてくれた。僕は今や世界のヒーローだった。


 僕とミシュランは凱旋帰国した。ふたたび、僕が住んでいる街までやってきた。誇らしい気持ちだ。
 「さて、じゃあそろそろ帰ります。ありがとうございました。こんな経験できるなんて」と僕は言った。僕の街の雨はすでにやんでいた。空はまた一様に濃い青となり、ビルの影も復活していた。地上に戻ればこれまでと変わらない生活が待っている。変化があるとすれば、煙草は一本ずつ大事に吸うようになるくらいだろうな、ミシュランが煙草の何なのか知らないが、と思った。それから僕は、「サマーソルト」と言った。
 ところが、ミシュランが意外なことを言った。「あんな、ほんまに申し訳ないんやけどな」
 「降ろしてやれんわ」
 「え?」と僕は言った。「いやいや、それは約束と違いますよ。僕飛ぶ前にあなたから降りたかったらすぐ降りれるって聞いたし、飛んでからも確認したくらいなんですから。降ろしてくださいよ」
 「ちょっとなあ」とミシュランは本当に申し訳なさそうな様子だった。「ちょっとやりすぎやねんな」
 「たとえばこの前飛ばしたった兄ちゃんは、『露天風呂見に行きたいです』言うて女子風呂を上空からちょっとの間見たら、それで満足して降りてったわ。その前の女の子は、『凱旋門上から見てみたいです』言うから、パリまで飛ばしたったら泣くほど感激しててな。それに比べて自分は欲張りすぎやねんな。四国に飛んだ時点で、あれ、こいつなんか欲張っていろんなことしようとしてるんちゃうか、思たよ。ほしたらまるで宮沢賢治の詩みたいに、西へ東へ飛んで、ヒーローみたいな感じ出してきよるもんな」
 「そんなの、そいつらより僕は社会の為にこれを使ってるんですから、僕のほうがいい使い方じゃないですか」と僕は抗議した。
 「いや、わかってんねん。わかってるけど、やりすぎやねんな。もうあそこまでやってしまったら人間の領域を逸脱しとる」”リョウイキ”、”イツダツ”という熟語が奇妙に響いた。しかしそれは自分の言葉であるかのように、自分の内側から出てきた。怒りにとらわれた人間が、自分では想像もできない激しい言葉を使うのと同じだ。
 「そんなわけ」と僕は言った。「何人の人々を救ったと思ってるんですか?」
 それからこう言った。
 「僕は欲にまみれたカスみたいな人間じゃない」
 そのとき、空が一瞬で灰色に変化した。雷が近くで鳴った。そして雹のような雨粒が変則的なリズムで落ちていった。僕はどうすることもできず、ただ見ていた。それは飲み物の入ったグラスを倒してしまった直後、一瞬すべてが静止して動けなくなる感覚に似ていた。白いテーブルクロスの上に染みが広がっていくように、決定的なその瞬間がどこまでも引き延ばされていった。
 「あー」ミシュランが言った。嬉しそうな声にも聞こえた。「これはみんな困るで」
 川の水位が上昇しているのが見える。急いで帰宅する人々が見える。不公平だった。彼らには少なくとも、帰る家があるのだ。僕はこれから一体どうなってしまうんだろう?
 「もうな、こんだけいろいろやってしまったら地上にはおれんのんよ。星になるしかないわな。ギリシア神話とか知らん?」
 「ホシニナル」と僕は繰り返した。それは自分の内側から響く言葉なのだ。星になる?
 「いま確認してみたらな、さそり座とこぐま座に空きがあるらしいわ」ミシュランが、今度はまちがいなく嬉しそうな声で言った。「ラッキーやな。さそり座なんか人気でいっつも埋まってんねやから普通はなられへんねんで。星になってみんなを空から見守ったったらええやん」
 空には雲が重なり、より立体的になってきていた。雨脚はさらに強まり、大量の水が地上に流れ落ちている。川沿いの住宅にはすでに濁流に飲み込まれているところもある。地上でやりのこしたことが次々と浮かんできた。結婚を考え始めていたことを思い出した。涙が出てきたような気がしたが、暴風と豪雨ですぐにわからなくなった。目や鼻や耳や口に水が入ってくるのを感じた。息をすることも苦しくなってきた。
 「そろそろどっちに行くか決めな。死んでまうで」とミシュランが心配そうに言った。
 僕は空の上で初めて、目を閉じた。小さい声で「サマーソルト」ともう一回言ってみた。何も起こらなかった。そして、さそり座とこぐま座のどちらが良いだろうかと、真剣に考えはじめた。