鈴虫を飼う

 「私」と彼女が言った。「鈴虫だったの」
 「鈴虫?」
 「ちょっと前までね」
 学食の南側は一面窓ガラスで、真っ白な太陽の光が斜めに入り込んできていた。わたしと彼女は、編入者向けのキャンパス見学ツアーを終え、案内役の学生に連れられてここにやってきた。午後のオリエンテーションが始まるまでに昼食を取るように、ということだった。編入する学生はわたしたちふたりしかいなかった。わたしは当然一緒にご飯を食べるものだと思っていたのだが、彼女はわたしになんか目もくれず、他の学生に交じってすんすんと列に吸収されていってしまった。彼女は少し猫背だが、意外なほど速く、滑るように歩いた。まるでアイスホッケーの選手のようだった。わたしは慌てて後を追いかけ、食事を受け取って、窓に向いたカウンター席に一人で座る彼女の姿を認め、その横に座った。
 「どこの大学からきたの」それで、わたしは話題を逸らすように言った。
 「ほかの大学には行ってない。一応早稲田から来たってことにはしてあるけど。人間になってから、初めての大学がここ」
 「そう……」とんでもない不思議ちゃんに当たっちゃったのかな、と思った。
 彼女はいったん食事の手を止め、まっすぐにこちらを見ていた。わたしは彼女の目を見た。二重まぶたで、一般的に大きいほうの部類だと思うが、大きい目に特有の親しみやすさのようなものが皆無だった。近くでよく見ないと、細いという印象を先に与えてしまうような目だった。冷たい雰囲気を放っていたが、それはそれでとても綺麗だと思った。
 「お肉は食べるんだね」わたしはそのとき、ちょうど彼女が食べている青椒肉絲に目がいった。ちょっと彼女をやり込めようと思って、意地悪な言い方になってしまったかもしれない。
 「いまは人間だからね」彼女は平然と答えた。逆に遊ばれているみたいな感じがした。「でもこのたけのこは、まずいからよけちゃうね。あなたはずっと人間なの」
 「うん……」
 「私が昔鈴虫だったなんて、信じてないんでしょ」
 そのときはじめて彼女が笑った。太陽の光が少し強くなって、ガラスはわたしたちにあたたかさだけを届けてくれた。本来太陽の光と同時に感じるべきである、外の冷たい風やにおいを完璧に遮断して。
 「えーと」
 「あなたが中学とか高校時代を過ごしてきたみたいに、わたしは鈴虫の時間を過ごしてきただけなんだから。どっちがほんとうでどっちが嘘とか、ないの」
 わたしはこうなったら、とことんついていってやろうと思った。
 「じゃあさ、たとえば、歌がうまかったりするの」
 「安直だね」と彼女は笑った。「鈴虫は羽を震わせて鳴くんだよ。あんまり人間になってからそれが活きることはないね」
 「そうなんだ」
 「でもね」と彼女が言った。「天気予報は得意だよ」
 「意外」
 「そのへんにいる虫たちが雨に当たったらどんなに大変か、考えたことないんでしょう」彼女はちょっと非難する調子で言った。
 「雨ってね、虫にとってはほんとに大変なんだから。雨粒って大きいの。当たったらすごく痛いし、水溜まりになんか飲まれたら溺れ死んじゃう。だから雨が降りそうになったら木の下とかにみんなで移動するの」
 わたしは、彼女が群れのリーダーみたいな鈴虫にとことこついていっている姿を想像した。
 「今日も夕方から雨が降るから、気を付けたほうがいいよ」と彼女は言った。
 こんなに晴れてるのに?わたしは携帯をとりだして、この地域の天気予報を見てみた。夜まで降水確率は0パーセント。
 「そんなわけないよ。天気予報だってずっと晴れなんだから」
 その後わたしたちは、一般的な女子大生がしそうな話ばかりを続けた。鈴虫の部分以外は、彼女とはどんな話をしても意気投合した。彼女はダンスのサークルに入りたいと言った。わたしもそうだった。今度一緒に練習に行ってみようということになった。わたしはそれが楽しみで、しかたがなかった。


 午後のオリエンテーションを終えて、わたしはひとりで大学の最寄り駅まで向かった。相変わらず晴れていて、大学の講堂を出たときには西日がとても眩しいくらいだった。やっぱりずっと晴れだ、科学の力舐めちゃいけないんだからね、とわたしはひとりで考えて、彼女のことを思い出した。彼女の肌は白く、服も白を基調とした、袖の部分に紫と緑の切り替わりが入ったスポーツメーカーのアノラックジャケットを着ていた。それから低い声と、あのちょっと冷たい目つき。
 「雨ってね、虫にとってはほんとに大変なんだから」脳内で彼女の声が反芻された。あのクールな感じで突拍子もないことを言うのがなんだかおかしくて、とても可愛かった。
 帰りの電車に乗り込むと、帰宅ラッシュの時間より少し早かったので、まばらに空席があった。わたしは入口付近の手すりにもたれて立ったまま、周りの人々を見渡した。スーツ姿のサラリーマンがうたた寝していて、派手な服を着た女性が携帯を見ていて、目の前のおばあさんが文庫本を読んでいる。ここに居る人たちが普通でない過去を持ち合せている可能性を、わたしは少しだけ考えてみた。
 「あなたが中学とか高校時代を過ごしてきたみたいに、わたしは鈴虫の時間を過ごしてきただけなんだから。どっちがほんとうでどっちが嘘とか、ないの」
 わたしは、一匹の鈴虫を手に乗せることを想像した。手に乗せてしばらくすると、鈴虫が羽を震わせて、まるくて高い音を出した。ときどき途切れながらも、一生懸命震わせた。わたしはもう片方の手の人差し指で、震える鈴虫の羽に触れてみた。鈴虫は少し動揺したようでいったん鳴くのをやめたが、しばらくしてまた鳴き始めた。熱したバターのようになめらかで、あたたかな振動が指先に伝わって、炭酸飲料の泡みたいにゆっくりと、指先から腕、肩とわたしの中を昇っていった。わたしはずっとそうやって、鈴虫の声と、その振動を感じ続けていた。そんなイメージが乗換駅のアナウンスまで続いた。
 いったん電車を出ると、吹きさらしのホームの冷たさがわたしを現実に戻した。わたしは虫が大嫌いなはずだった。鈴虫なんて、音は綺麗かもしれないけど、見た目はグロテスクに違いない。気持ち悪いのとバカらしいので、よくそんなものを触る想像ができたなと、ちょっと自己嫌悪に陥った。そんなことを思いながらも、駅の構内を歩くわたしの中にさきほどのイメージがちらつき、わたしは必死にそれを抑えた。なんだかすごく悪いことをしている気分だった。
 家の最寄り駅に着くころにはかなり暗くなっていて、それは最近日が短くなってきたせいだけではない。いつの間にか分厚い雲が空を覆っていた。そして、改札から出ていく人々の群れに加わったとき、ぽつぽつと雨が降ってきた。皆、天気予報を信じ切って傘など持っていないと見えて、驚いたように速足で歩き始めた。わたしだけがゆっくり取り残されていった。
 わたしは携帯の画面を見た。案内役の学生から、編入先の大学のグループラインに招待されていた。わたしが参加すると、そこには彼女も入っていた。彼女はすでに当たり障りのない自己紹介をすませていた。鈴虫のことになど、かけらも触れてはいなかった。それを確認すると心の中がじわっと湿って、あたたかさが全身に広がっていくような気がした。それは先ほどの想像のなかであの震える羽にそっと触れたときの感覚に似ていた。
 携帯をバッグに入れて、わたしはまるで忘れ物を思い出したかのように歩く速度を上げた。家には真っすぐ帰らずに、道中にあるホームセンターの方へ向かった。引っ越してからこれまでホームセンターに用事なんかなかったので、訪れるのは初めて。にもかかわらず、見たいものははっきりしていた。わたしは店の中を速足で歩き、ある一角の前で立ち止まった。
 それは虫かごのコーナーだった。夏休みもとうに過ぎ、大分縮小されたとみえるその売り場で、買い手がつかなかった虫かごたちが肩身狭く積み上げられていた。わたしは商品のパッケージにに鈴虫を見つけた。ハート形の羽に、脱皮したあとの蛇の抜け殻みたいな細かい模様、思った通りすごく苦手な見た目だ。それなのに、じっと見てしまう。また電車のなかでの想像がよみがえってくる。虫かごを目の前にすると、その想像はより具体的な形を持った。この虫かごに鈴虫を入れ、深夜に部屋の中で時折取り出しては、その鳴き声にそっと指を触れた。わたしはずっとそうしていた。途中、一度店員が来て、声をかけるか迷ったような様子を見せたが、そのままどこかに行ってしまった。
 最終的には、わたしは何も買わずにホームセンターを出た。さらに雨が強くなっていて、傘を持たないわたしはどうしようもなく、ただ冷たい雨に濡れながら、相変わらずゆっくりと歩いた。そしてこう考えた――虫かごに閉じ込めてしまったら、天気がどうなるかなんてほかに誰がわかるというのだ。