普通の恋愛

著者: 串岡 @kushioka_

 32度。まだ6月だというのに馬鹿みたいな暑さで支配された街の、あんまりエアコンが効いていない喫茶店のせいで、960円も出して注文したアイスカフェラテの氷は跡形もなく液体に溶けている。グラスの外側は店に入るまでの自分のようにだらだらと汗をかいていた。汚い。まだ半分も飲んでいないのに、勝手に飲みたくなくなっている。あまり磨かれていないだろう、細かい傷をつけていながら窓から入る日光に照らされたグラスの反射を眺める。涼しさを感じる物体なのにどうしても自分が排出した汗を感じさせる目の前の飲み物から逃げたかった。これで残ったカフェラテを残して店を出たら気まずい気分になるのだろうか。全然飲んでいないのに! 頭の中で仮定した状況をぐるぐると考えながら、トウコはその行動をとることができない自分のことをわかっていた。人を待っているのだ。


 3年付き合っていた彼氏のヨシタカから、地元に婚約者がいることを知らされたのは一週間前のことだった。話があると呼び出され、ヨシタカ宅に行くと正座をして彼がうつむいていた。トウコは嫌な予感がした。
 「ほんとうにごめん。トウコのことが本気で好きだったんだ。それは確かなんだ。だけど、その子と結婚しないといけないのもほんとうのことなんだ」
 目にいっぱいの涙をためながら(その涙が実際に彼の涙腺から出たものかは確かでないが)、それでも自分のいままでついてきた嘘と意見を変えない意思を感じさせる鋭いまなざしを遮ることは難しかった。
 ヨシタカは大学の先輩だった。大学入学を機に広島から東京に出てきて、西武新宿線にマンションを借りている典型的な大学生だった。トウコが1年生、バドミントンのサークルの勧誘チラシを配っていた時に声をかけられたのが出会いのきっかけだった。チラシを渡すときにしっかりとトウコの目を見て渡してきたのは彼だけだった。ほどなくトウコは勧誘通りバドミントンサークルに入り、2年の夏、サークル合宿で行った長野の星空の下でヨシタカはトウコに付き合ってほしい、と告白した。断る理由もなく、ヨシタカとトウコは付き合うこととなった。
 きっと、ヨシタカは第三者から見たら普通の大学生にしか過ぎなかっただろうと思う。とんでもない額の仕送りをもらっているわけでもなく、大学で目立つわけでもなく、学業に打ち込みすぎるタイプでもなかったが、不真面目な生徒というわけでもなかった。それが良かった。トウコも普通の学生だった。お互い、何か突出した思考や行動を大学内で示すわけでもなく、もちろんサークルやバイト先、大学以外のコミュニティでも同じことだった。大学内では、羽振りのいい男や顔立ちが端正な男、服に凝っている男、学生のうちにすでに事業を立ち上げ大成している男、その魅力的な男性たちがうじゃうじゃいて、そのどのジャンルでも突出している男は人気があったが、トウコには関係のないことだった。ヨシタカと育む普通の恋愛経験がこの上なく幸せに感じられると自覚していたからだ。
 普通のデート。水族館に行く、ピクニックに行く、たいして知りもしないのに音楽の大きなフェスに行く、記念日には少しいいホテルをとって夜景を眺める。普通の喧嘩。晩飯の店が決まらず気まずくなる、約束していた時間に少し遅刻する、就活の疲れですれ違う。普通の性行為。初めて体を触りあうときの緊張感、年月が経って決まってきた行動パターン、それでも不満を持たずに定期的に行う行為。そのどれもが、言葉にしないながらも愛おしいと思えるすべてだった。ヨシタカより1年遅れて社会人になったトウコは感じていた。このまま別れなければ、きっといつか、具体的には3年くらい後に、私はこの人と結婚して神奈川の外れあたりに家を買うんだろうと。それなのに。それだからだろうか。


 「ヤー!」
 トウコが大学4年になった夏、ヨシタカの家で流し見していたテレビから男性の叫び声が聞こえる。なんだ、と思ってテレビに注目してみると、そこには高校生のロボットコンテスト大会の中継が映っていた。さっきまで黙々と真剣な表情でコントローラーを動かしていた男子高校生が、感極まってガッツポーズをしている。彼が相手にしていたロボット、2足歩行のロボットは転倒している。もう、ボロボロで立ち上がることも難しそうだ。操作している彼の後ろで祈るように眺めていたほかの高校生も興奮し、ぎこちない動きで喜びを体で表している。
 キッチンにいたヨシタカが麦茶を入れたグラスを持ってリビングにやってくる。
 「おお、ロボコンやってるじゃん」
 「ロボコンって略すんだ」
 「うん。知ってる?」
 「ううん、うーん、なんか、存在だけは」
 「そうか、そうだよねえ」
 ヨシタカは少しにやつきながらソファに座り隣のトウコに少しよりかかる。
 「俺、高校の時これに出たことある」
 「えっ、そうなんだ! これって何するの? ロボットで戦うの?」意外だった。彼は大学では文系学部におり、やれ電気工学ややれプログラミングやらという単語を口にすることはなかったからだ。
 「うん、まあ、そんな感じかな」
 「なんか意外。そういう部活があるの?」
 「学校によるよ。俺の行ってた高校はちゃんと部活としてあったなあ」
 「ロボコン部って?」
 ヨシタカが噴き出す。
 「いやあ、そんなに直接的なものじゃない気がしたけど。なんだっけ。物理部だったかな? もう結構前のことだし忘れた」
 なんとなくトウコは違和感を感じた。ロボコンの全国大会に出るくらい打ち込んでた人間が所属していた部活のことを忘れるだろうか。テレビに視線を戻すと、大会は佳境を迎えていて、さっきまで相手のロボットを一方的に攻撃していたロボットと、また別のロボットが対峙していた。決勝戦のようだった。


 ヨシタカの告白を聞いて黙っている最中に、トウコは一緒にロボコン大会を見たことを思い出していた。唯一彼との出来事の中で意外性があったものだった。いけない、と我に返って震える声を出した。
 「いつからいたの」
 「……え?」
 「いつからいたのって聞いてんの! 婚約者!」
 トウコが声を荒げると、ぎゅっとヨシタカは目をつぶる。
 「……大学の、二年生のときから」
 一気に体温が下がって鼓動が速くなるのを感じた。この人は、私と付き合っているときから。もしかしたら、その前から婚約者がいたのか。気づかなかった。確かにヨシタカは1年の中で地元に帰る頻度が少し多かった。トウコの実家が東京なのもあって、彼女はだいたい年に一度か二度、お盆か年末にしか帰らなかったが、ヨシタカはそれに加えてゴールデンウィーク、夏休み、シルバーウィーク、春休みと長期休暇があるたびに一泊二泊という短い期間でも帰省をしていた。特に疑ってもいなかった。ヨシタカは人並みに地元に友達がいるようで、彼らや両親との交流も楽しんでほしいと思っていたからだ。両親からのたまの電話もトウコの目の前で受けていたこともあるし、特に疑うような行動もしていないと感じていた。だが、それらは巧妙にブラフとしてあって、実際には地元で決められた婚約者と蜜月を過ごしていたのかもしれない。
 その時初めてヨシタカの実家のことを詳しく聞いた。ヨシタカの父親は地元で有名な電子部品を取り扱う企業で、長男のヨシタカはいずれその跡取りとして広島に帰ることが大学入学時から決まっていたらしい。そんな話、ひとつも聞いたことはなかった。実際ヨシタカが就職したのは東京の中小商社の営業で、就職のために地元の企業の面接を受けた話もなかった。広島に帰らないんだな、と思っていたが、生まれ育った東京に特に未練もなかったトウコにとっては、そんなものなのだろうと不思議に感じることもなかった。トウコも1年遅れて恵比寿にあるIT企業の一般職に就職したのもあり、お互い社会人になってからは仕事の話もぽつぽつ出てきたが、実家の話なんて出てくる余地もなかった。婚約者は地元の大きな工場の社長の娘らしい。察するにヨシタカの扱っている電子部品の一部を作っているのだろう。いまだにそんな政略結婚みたいなことがあるのか、と思ったが、きっと地元に帰るたびに、いやその前から彼と彼女は友情、そしてトウコと同じように恋愛感情をお互い育てていたのかもしれない。それはもう、純愛とも言っていいのだろう。
 だからか。ロボコンに出たのも、そういう部活に入っていたのも親の影響だろう。小さいころからそういうものに触れていたからそういうものに準ずるのも不思議ではない。トウコは自分の知識不足で、彼が打ち込んできたものを「そういうもの」としか感じれない自分に呆れてもいた。
 「なんで、私と付き合ったの」
 「東京に出てきて、自分が触れてきた機械の世界以外にも、もっと面白いものがあるって思ったんだ。俺、ずっと自分の親の会社を継ぐことしか頭になかった。でも、大学の間だけ憧れてた東京に来れることになって、それで俺……」
 「答えになってないよ」トウコは苛立ちを隠さずに言い放った。ヨシタカは目が泳いでいる。少しの間沈黙があり、ヨシタカは口を開く。
 「会社を継がないで、こっちで就職して頑張ろうかなって、大学の時に思い始めたんだ。親の言いなりにならなくてもいいんじゃないかなって。そう思ってた時に、トウコと仲良くなって。俺、楽しかったんだ。決められたレールを歩くんじゃなくて、自分が決めた、いや、好きになった人と一緒に過ごすのって、すごい、楽しかったんだ」
 トウコの目から涙が伝った。トウコが愛おしいと思っていた出来事を、この人も同じようにとらえていたのだと。それは、間違ってなかったんだ。
 「じゃあ、なんで、急に」
 「一緒にロボコン見たの覚えてる? 結構前」
 今さっきまで思い返していた思い出をピンポイントで出され、動揺する。
 「……うん」
 「あれ見て、大学で勉強してきたこととか、今の会社で経験した全部、もちろんよかったんだけど、でも、やっぱり俺、ああいうの、すごく好きだったんだよね。思い出しちゃったんだ。また、ああいうことに囲まれたいって思って。俺が、広島に帰りたくて」
 トウコは鼓動がどくんと跳ねるのを感じた。言いなりじゃないじゃん。勝手に、自分が彼の身の回りにあったから、「そういうもの」に馴染みがあったと思っていたが、彼はきっと彼の選択で「そういうもの」に囲まれていたいと思っていたのだ。以外にドライだなとも思った。広島に帰るとしてもトウコと人生を共にするのでなく、彼の選択に必要なのは工場の社長令嬢なのだ。言われなくともわかる。
 結局のところ、彼にとって東京にいた数年間は魔がさしたというか、もっと言えば人生経験のためなのか。じゃあ、私との恋愛も自分の人生を確定するまでのモラトリアムだったってこと?
 「隠し続けてどうするつもりだったの」
 「……トウコ、まだ、22歳だし。新しい環境でお互いの人間関係が変わって、自然に別れられるかもって思ってたんだ。でも、本当に好きだったから。隠し続けるのが嫌になって──」
 もはや彼の言葉ははっきりと答えになるものではなくなっていた。罪悪感と、それでもどこかまだ理解を得られるような期待を孕んだ声色で、トウコを追い詰めていく。ひどい、と思った。新しい環境なんて、付き合ってきた3年のうちに何度も飛び込んできた。ゼミや、お互いの就活。バイト先だってそう。それでもお互いの気持ちがあったからここまで続いてきたのに、なぜ社会人になっただけで変わると思っているのだろう。トウコは理解できないでいた。きっと今後何年か社会人として身を置くことで理解する学生と社会人の違いを、社会に出て数か月の彼女は受け止めることができなかった。
 トウコは、ふっと諦めの気持ちが心に訪れたのがわかった。何度聞いても、責めても、自分が納得することはないと。すでにぼろぼろ涙をこぼしている瞼を擦り、言葉を絞り出した。
 「じゃあ。じゃあ、その人に会わせて」
 「え?」
 「わかったから。もう、わかったから、諦めたい。婚約者、紹介して」
 普通じゃないことを言っているのはトウコが一番わかっていた。ヨシタカは面食らってもごもごと言葉を見つけようと唇を動かす。もう普通を実感しなくたっていいのだ。
 「その人見たら、もう関わらないから」
 強い口調でヨシタカに言う。心のどこかで期待していた。婚約者がとんでもなく素敵な女性であることを。


 トウコはヨシタカの懺悔を喫茶店で思い返していた。躊躇するヨシタカを強引に言いくるめ、今日はヨシタカとその婚約者を待っている日なのだ。ため息をつく。紹介されたところで諦められると思っていなかったから。ヨシタカたちはまだ訪れない。時間をつぶすため、Youtubeを開く。おすすめの動画に、様々な人たちの恋愛失敗談を紹介する動画が流れてきていた。ヨシタカと別れてから、トウコはそんな動画ばかり見ていた。一人じゃないと思いたかったし、そこで紹介されるエピソードは自分よりもっと悲惨で、自分が悲しんでいたことなんでよくある経験のように思えてくるからだ。
 「トウコ」
 聞きなれた声。顔を上げるとヨシタカが手を挙げていた。少し、顔が浮かない。当たり前だ。この前まで付き合っていた女に別の女を会わせるからだ。後ろに人影があった。覚悟を決めて女性を見る。
 とてもきれいな人だった。すごく素敵な女性だった。美醜の問題だけじゃない。表情から、しぐさ、何から何まで光り輝くように、きらきらとしていた。育ちが良いのか、それともスタイルから染み出てくる清楚さなのか。小さい顔を持ち上品な服を着た痩身で少し背の高い彼女は嬉しそうに笑いかける。ちらと窓に映った自分自身を見ると、ほんとうによくいる一般人だなと実感した。
 「ヨシタカさんの『親友』の、トウコさん、ですよね?」
 最悪。あいつ、私のこと、親友って紹介したんだ。
 会えてうれしいです! と彼女はまばゆい笑顔をこちらに向けてくる。ヨシタカが私と付き合いながら婚約者とも縁が切れなかった理由がすぐわかった。私たちが大切に思っていた普通の恋愛は、この普通じゃない女が持っているきらめきに負けたのかもしれない。ヨシタカは普通の恋愛より、唯一無二の何かを持っている彼女に少なからず惹かれていたのだろう。普通の恋愛経験は、もう済んだということだ。彼は彼の選択を全うした。それが少し普通でなかったとしても、それが彼にとって良かったのだ。普通でいいと思っていたのは、私だけだ。
 ドン! トウコは机をたたく。一瞬でヨシタカと婚約者の表情が恐怖に変わる。どろどろに溶けたカフェラテがこぼれそうになる。
 「最低、ヨシタカ、ほんと最低。ありえない」
 もっと、言いたいことがあるのに、口がうまく動かなくて出てこない。矛盾しているのは自分が一番わかっている。ここに二人を呼び出したのはトウコなのだ。トウコは鞄をひっつかんで彼らをすり抜け出入口へ向かう。むなしいのがわかりきっていた。こんなことしないで、知らなくてよかったのだ。ここから逃げ出したかった。
 「トウコ!」叫ぶヨシタカ。
 「待って、トウコさん、どうしたんですか!」
 婚約者の声が後ろからトウコを捕まえようと襲いかかってくる。トウコは歩きながら苦笑する。あんなに素敵で特別なものを持っていそうな人でも、とっさに出てくる言葉はよくある言葉だ。そんなよくある言葉で足を止めるわけがない。


 トウコは涙を流した。最後までよくある修羅場での行動しかできなかった。もっと、何か、私とヨシタカに通じる唯一の言葉があったはずなのに、出てこなかった。街の人々は泣きながら歩くトウコを気にも留めない。自分だって道端で泣いている人を見かけても、たまにいるよなとしか思わなかった。
 私だって、枠にはめられない何かがあったはずなのに。普通という言葉でパッケージングしていたのは、私だったのかもしれない。普通って、なんだよ。普通じゃなかったんだよ。今まで経験してきたそのどれもが、私の人生に必要なよくある話じゃない、普通じゃないことだったんだよ。
 何にも代えがたい思い出だったのに。諦めちゃいけなかったのに。逃げ出す足を止められない。