人生史上最高に忙しい夜

 今夜は僕にとって人生史上最高に忙しい夜だと言っても過言ではない。携帯電話が鳴っている。昼間は昼間で人生史上最高に忙しい昼間ではあったのだが、今晩ときたらそんなものの比ではなかった。携帯電話は鳴り止みそうにないがどうせ仕事の催促の電話なのは分かり切っていることなので一旦置いておく。ついさっき同棲して2年になる彼女が飛び出していった。仕事しながら話半分で聞いていたのでどうして怒ってどうして飛び出していったのかはわからない。彼女もいい歳をした大人なので頭が冷えれば帰って来るだろうし冷えなければどこかに泊まってくるだろう。これも一旦置いておく。さっきから呼び鈴を鳴らしているのは今晩僕の家で飲む約束をしていた友人だ。これは古い友人で幼稚園が一緒だ。かといってその後一緒だったことはなく彼は都会に出て僕は田舎に残った。それから十数年交流はなく僕が都会に出てくるタイミングにFacebookで連絡がきてそこからちょくちょく会うようになった。ただ少し厚かましいところのある友人でよく家に来たがって飲みたがる。いい奴ではあるのだが若干人をイラつかせる才能がある。うざいのでこいつも一旦置いておく。冷蔵庫が電子音を鳴らしている。扉を開けはなしていたらしい。冷蔵庫が閉めろと人間様に指図をしているのだ。冷蔵庫の中には腐って困るようなものは何も入っていない。入っているのはいつのかわからない焼きそばの粉ソースと僕は常温がいいのに彼女が頑なに冷蔵庫に入れたがる1.5Lの醤油のボトルだ。別に困ることはないのでこれもまた一旦置いておく。窓の外では猫が鳴いている。僕の部屋は2階建てアパートの1階で細い路地に面している。カーテンをしなかったら外からデカい窓のせいで中は丸見えだ。外で鳴いている猫は地域猫とでも言うのか勝手に餌をあげていたら懐いて時々こうやって食事をねだりにやってくる。責任がないから楽だが飼うとなると面倒だろうなと思う。飯の世話くらい自分で出来るペットなら考えないでもない。愛玩動物の未来もきっとそこにあるはずだ。そんな未来を願って猫に食事を与える名誉ある仕事も一旦脇に置いておく。実はさっきからトイレに行きたい。ただこの感覚を抱いてからからどうしてトイレに行きたいのだろうかと考える。なぜなら今僕の下半身はヤマハのアップライトピアノになっているからだ。どうしてこんなことになってしまったのかはよくわからない。僕の臍から下はすっかり黒光りする高そうなピアノになってしまっている。動かせる気配はない。それでもだだ漠然とトイレには行きたくなっている。この状態でも膀胱は存在しているのだろうか。しかしこのままだと漏らしそうだ。漏らすのか?アップライトピアノがどうやって?このアップライトは彼女が出て行ってからしばらくPCに向かっていたら突然現れた。無茶苦茶だ。確かに僕はこの時になんかもうどうでもいいやと言った。だがそんなのは思ってなくても口をついて出てくることもあるだろう。それにどうでもいいやって言ったからといってアップライトピアノになってしまうのはどうかしている。僕はもうどうでもいいやと呟いて夜を何度も誤魔化してきたのにこんな誤魔化され方はあんまりだ。ごにょごにょ考えていたが僕の尿意はもう限界だった。どこから出るのか分からないが床は拭けばいいしラグはお気に入りだが捨ててしまえばいい。漏らすよりは自分から出した方がよさそうだと思って出す。トイレで感じているいつもの感覚だ。ほっとして辺りを見渡すと何かが零れている様子もない。なんだこれは便利な体なのではないかと思うと少し心に余裕が出てきた。動けないというのが不便であると同時に色々と一旦置いておけるということでもあることに気がつく。僕はピアノの蓋(勿論僕の体のやつだ)を開けた。よく見る白黒の鍵盤が並んでいた。1つ押してみると音が鳴った。今までもピアノであるということは分かっていたが音が鳴ってみるとああこれはピアノだと思った。僕はピアノが弾けないが自分の体から綺麗な音が出るというのは気持ちがいいものだ。僕が今まで生み出してきたものは汚いものばかりだ。鍵盤は自分から見ると反対なのでちょっとだけ変な気分だ。鍵盤を同時に押してみたり、黒い鍵盤だけを弾いてみたりしているうちにこのピアノが自分の体であることの実感が沸いてきた。頭で思い描いた音が自由に出せるのだ。喉を震わせてスキャットを歌うように、僕は僕の鍵盤を押して出したい音が出せる。昨日行ったジャズバー(昨日はなんて平和で素敵な休日だったのだろうか)で聞いたマイフーリッシュハートやサーチフォーピース、僕が考えた僕だけのピアノソロだって思うがままだ。僕はこの瞬間からマッコイ・タイナーでありビル・エヴァンスであった。弾きながら気分が良くなる冷たい瓶ビールが飲みたくなる。僕はコードとコードの合間、アプローチノートのタイミングでヤー!と合いの手を入れる。僕はずっといつまででもピアノが弾いていられるような気がした。少しずつピアノの黒い塗装が胸のところまで伸びている。僕はもうどうでもいいやと思った。セブンスのコードが響いた。