ヤー!

 打ち上げだ!あんまいいライブじゃなかったけど仕方がない、我々は飲むためにライブをやっているのだ。ど田舎の山奥。近くのイオンに酒を買い出しに行って、部屋が広いあいつの家で飲むのだ。飲むのは決まってウォッカである。それが一番安く、すぐに酔える手段だ。チェイサーのジュースと、おつまみに、バラバラに割れた煎餅のパック(不味い)を買う。
 夏の夕焼けに、染まった雲がV字にかかっている。それはギブソン・フライングV。オレンジ色の変形ギター。山を通り越して温度の低い空気の塊が運ばれてくる。真っ直ぐに伸びた針葉樹の間を通り抜けて伝わってくる。雑草生い茂る上を掠めて飛んでくる。若さは永遠ではないことには誰も気づいていなかった。我々も。植物も。V字型の雲も。暮れかかる太陽も。
 今日は誰が来るんだっけ?我々のバンドからは、自分、ハノイ、マイアミ。対バンのメンバーから、グラスゴー、ミラノ、カイロ、マルセイユ、サンクトペテルブルク。友達のシドニー、リマ。まあまあな人数になりそうだ。酒は足りるかな?瓶は四本買った。冷凍庫に突っ込む。こんな不味いものは凍らせて飲むに限る。
 21:00。打ち上げを開始する。時間通りに来たのは、自分と、家主のマルセイユ、マイアミ、これだけだ。飲み会の始まりはいつだって寂しい。けれど心配することはない、みんなどうせ来るから。マイアミが好きな音楽を流し始める。スウェーデンのメタルバンド。なかなかいい。俺はこのバンドの良さについて、わかっているような顔でマイアミと話を弾ませる。
 23:00。話し声のボルテージが上がる。横の部屋から壁パンチが飛んでくる。我々は一瞬、静かになって、そしてまたうるさくなる。早いペースで二本目が空く。皆酔っている。シドニーは顔が赤い。俺は横目でミラノの様子をうかがう。チェイサーがなくなる。ハノイが凄まじいペースで飲んでいる。大丈夫か。
 21:30。ハノイとグラスゴーが来る。マルセイユの部屋のスピーカーが断線し、片方から音が聞こえなくなる。
 1:00、もしくは2:00。いつの間にか買ってきた酒が全て空いている。マルセイユの家にあった酒が持ち出されてくる。机の上に紙コップと煎餅のかけらが散乱している。リマが寝始めてしまう。ハノイがフラフラし始める。会話のボリュームが落ち着いてくる。
 21:45。スピーカー復旧。ライトのケーブルをジャックに何度か抜き差ししたところ接続が悪い。ねじるようにして差し込み、接触するちょうど良いポイントを見つけることで復旧した。マイアミが音楽に合わせて、部屋の端っこでギターを弾き出す。勘弁してほしい、飲み会でギターを弾くのは。
 23:30。グラスゴーとミラノが帰るという。意外だ。今日はミラノにとってのチャンスの日ではなかったのか。思った以上に酔っ払ってしまったのか。友達が車で迎えにきてくれるらしい。テーブルの上が紙コップで散乱している。俺はもう飲めなくなっている。注がれた酒を、こっそりと机の下にこぼす。
 22:15。シドニーとリマが一緒に来る。ミラノが来る。おそらくミラノはシドニーのことを狙っている。俺は知っている。今日がそのチャンスになるのかもしれない。ここから目を離さないでおこう、と、俺は考える。ウォッカの瓶の一本目が空く。これからさらにペースが早くなりそうだ。リマが我々のバンドを褒めてくれる。サンクトペテルブルクから、今日は来れなくなったという連絡が入る。
 その次に時計を見たのが、2:45。ハノイの調子が明らかにおかしい。まともに話せなくなる。部屋の隅にぐったりと倒れる。その姿は大きなテディベアのようだ。カイロが水と、大きなごみ袋を持って行き、ハノイの口に指を入れて吐かせようとしている。
 「大丈夫?」とシドニーが聞く。
 「もしかしたらちょっとやばいかも」カイロが答える。
 「救急車、呼ぶ?」
 「救急車……」
 青ざめてしまう。酔いがすっかり醒める。そして、非常に悪いことをしている気分になる。この県に救急車は何台あるんだったか。医療従事者は大変だろうに、こんなくだらないことで救急車を呼んでいいものだろうか。
 俺はハノイの顔色を窺う。薄暗いのでよくわからない。赤らんでいるのか、青ざめているのか。そのやや浅黒い肌が、暖色の灯りの下で奇妙な色に見える。目は半分閉じている。
 「おい」
 問いかけてみる。が、返事はない。俺はマイアミを見た。
 泣いていた。
 泣いている?
 俺は驚いた。そしてそれと同時に、ハノイを心配する自分の気持ちがすっと引いていった。自分がひどく卑劣な人間のように感じた。俺は泣くことはできないな、そう思ってしまった。意識は俺を離れ、この部屋を俯瞰で眺めた。マイアミは泣いている。優しいやつだ。俺は泣いていない。救急車を呼ぶことについての心配をしている。周りの皆はどうこの状況を見ているだろう。マイアミはいいやつだな、俺は冷徹なやつだな、そう思うだろう。そう意識すること自体が、さらに自分を低いところに下げていくようだ。
 正直なところ、マイアミのことをずるい、とまで思ったのだ。なんと矮小な人間だろう。いいよな、涙が出るなんて。俺は自分が最後にいつ泣いたのか思い出そうとした。意識はこの部屋さえも離れ、完全に自分の中に閉じていった。最後に、部活の大会で負けた時だったか。自分のための涙だった。悔し涙だった。俺は他人のためには、決して泣けないのだ。そういう人間だ。
 そして、開き直った。俺はこういう人間なのだ。優しくはない、悪いか。意識が部屋に戻り、女の子の視線が気になった。こういうところで泣けるやつの方が、なんだかかっこいいなと思って、俺は嫉妬した。大変な状況になっているハノイの横で、俺は自意識の塊と化していた。
 ハノイが本当に辛そうに水を一口飲んだ。朦朧としているが、どうやらまだ意識はあるらしい。
 「一旦救急車は大丈夫じゃないかな」俺はそう言った。ごく冷静に、感情を動かさない素振りで言った。この場でまともな判断ができるのは俺だけなのだ。みんなもっと俺を頼ってほしい、そうやって、この状況を利用して目立とうとした。
 「そうだな」カイロが言った。
 3:30。ハノイの調子がよくなってきた。相変わらずフラフラしているが、目のとろんとした、危険な感じがなくなってきた。相変わらずしっかりと水も飲んでいるようだ。
 「おい」俺はもう一度、ハノイに言った。「大丈夫か?」
 「ヤー」ハノイが消え入りそうな声で答えた。
 ヤー、じゃねえよ。
 俺は安心したのと、その変な答え方が面白かったのとで、思わず微笑んでしまった。
 「ヤー、じゃねえよ」マルセイユが、皆が思っていたことを言った。周囲は皆笑った。
 ハノイはちょっと口元に笑みを浮かべた。その時に、ああ、これは大丈夫なんだなと、皆が確信した。よかった。部屋全体が安堵の雰囲気に包まれた。
 急に、ハノイが立ち上がろうとした。潰れてから初めてのことだ。
 「おいどうしたどうした」カイロが言った。
 「トイレ」ハノイが答えた。そしてフラフラとトイレの方まで行って、ドアをバタンと閉めた。中から嘔吐の音が聞こえた。
 吐いてしまった後は、ハノイは比較的しっかりとした足取りで出てきた。ごみ袋の横の床に置いてあった2Lのペットボトルに口をつけ、かなりの量の水を一気に飲んだ。
 「皆、ごめん。ありがとう」
 ハノイは部屋の皆に言った。
 「よかったわ」
 マイアミが本当に安心した感じでそう言った。
 「まだいけるっしょ」とハノイが冗談めかして言った。
 「バカだなあ」マルセイユが突っ込んだ。皆また笑い、部屋は少し活気を取り戻した。
 俺は一人、黙っていた、俺はわかっていたのだ。皆と俺は違う。皆は本気でハノイのことを心配していた。でも俺は、その間自意識と戯れていた。俺の心はそこにはなかった。きったねえ人間だ。それが皆にバレていないか、それだけが心配だった。
 「ちょっと外行って、飲み物買ってくるわ」俺は一人になりたかった。
 「俺も行く」
 あろうことか、ハノイがついてきた。気まずい。
 ドアを閉めて自販機までの道を歩いた。街灯の周りに蛾がたくさん飛び回っていた。俺は自分のことをそんな蛾のような人間に感じた。光っている人間の近くをうるさくパタパタと飛び回り、そいつらのエネルギーを少しでもずるく吸収してやろうとしているのだ。
 「本当に、ありがとうな」
 夜道で二人きりになってからも、ハノイは申し訳なさそうに、俺の優しさに心底感動したような調子で言ってきた。俺はその顔を真っ直ぐに見ることができなかった。
 「よかったわ、マジで」俺はなるべく感情を込めて言った。それが空虚に感じられた。自分が思っているより冷たく響かなかったかと心配した。
 「いい友達だ」
 普段そんなことを言うような奴ではないのに、ハノイはそう言った。酔っていたからだろう。でも俺はそれを聞いて、このまま蛾のようにどこかに飛んでいって、消えてしまえないだろうかと、半ば本気で考えた。