ポストシーズン

著者: 鈴木レイヤ @reiyahead

 目覚めと共に夏の終わりはペンキを剥がすように起こった。窓のレース越しに、頭から尾っぽの先まで八〇センチはありそうなカラスがベランダ柵にとまっているのが見えた。古く固まったペンキは気持ち良く剥がされて、その下から見たことのない壁が現れる、知らない匂いと過去が圧縮から解き放たれ、昔のまま新しく、裂け目から現れたくせに本来そうあるべきだったような顔をしている――ここにどの季節が来ているかは窓に問うても心に問うてもわからなかった、しかしその時点で途方に暮れたり困惑したりすることもなかった。窓のフィルムが緑に光っている、曇り空が緑がかっていたことがこれまであっただろうか?――携帯をつけると午前十時だった。通知に並んだ友人の名前には知らない名前がいくつかあった。しかしこれらはいずれも自分のゆうじんであるらしい。気づかないうちに友達が少し増えてしまっているのだ。
 少し考えたところで僕は一つの結論に至った。この世界は少し、厳密に言うと1.3倍程度に広くなっている。トイレの壁に貼っていた世界地図が変わっていたのだ。赤道も温帯も永久凍土も広がっている、少し大きな星に変わっている、ありそうでなかった街の名がぽつぽつ見受けられる。緑がかった空に流れる雲は精密さを増していた。細かく色づいており、その下では大きな風が逆巻のコリオリで霧を打ち下ろしていた――もしこの世界でも龍が語られているなら、それもまた僕の知っているものとは少し違う想像力に則って描かれているのだろう。
 電話帳の連絡先を見ても知らない人間が増えていることは確かめられた。飯を買いに街に出たらやはりところどころでひとブロックずつ増えていた。しかし、大騒ぎしている人は見当たらないので僕も困惑を隠し、夕方へ移ろう緑の空を眺めていた。
 どうしたものかと思っていると夕方のニュースがひとつの答えを告げた。ニュースは幻覚している人がたくさん電話をかけている、と行った。少し違った世界になったと主張している人間が今日突然増えたらしい。彼らの信じる世界はここより少し小さいがほとんど同じであり、海が青い、主張は全て共通しているのだという。ニュースが不思議そうに語る異世界の情景こそが僕の知っている世界だ。幻覚者たちは自分が昨日と変わらぬ場所に生きているということを忘れており、これが世界経済に影響をもたらす可能性が不安視されているらしい。幻覚者たちは突然ありもしない共通の記憶を信じ、世の中が急変したと思い込んでいる。影響は計り知れないと専門家は言っていた。
 では、この場所の海はどのような色をしているのだろうか、と僕は興味を引かれたが、ニュースは取り上げなかった。皆にとっての海はこの前終わったばかりの夏、海水浴にいったときと大して変わらないことになっているうからだ。ここから海は遠い上に、やはり距離は1.3倍くらいになっている。この世界にこのまま触れ続けると、僕にとって当たり前だった記憶が書き換えてしまう気がして嫌だった。だからこれ以上携帯電話の中の写真や思い出を遡ろうという気を起こさないようにした。
 本当の記憶は今や僕と、世界中にいる幻覚を見たとされている人々の心の中にしか残っていないらしい――これもやがて消えていく。僕は焦りと共に、九月一日に騒ぎ始めた仲間たちの言葉をインターネットで探し始めた――頼りになるのが記憶だけであるため僕は絵を探した。赤や黄色に誇張され塗られた太陽は僕を慰めた。
 本当に青い空が存在していたのに、と思いながら僕は窓を開けた、東向きの窓からはいつも通りビルのガラスに夕日が反射しているが少し青みがかっている、街路樹に下向きのミズキが青い偽花を泥雨に叩かれたような顔で乱れさせていた、その青は光っていると思えるほどに明るく、奥から舌のような長く赤い花弁を無数に垂らしている。木々から伸びる夕方の長い影は一本ではない。
 どうしても好奇心を抑えられないので僕は玄関から出て夕焼けを見てやることに決めた。扉を開けた途端に、二色の西日が僕の目を射った。赤や黄色の絵の具を選びたくなる恒星がもう二度と戻ってこないことを、残念ながら確信した。
 沈みかけていたのは、互いに引かれ合う二つの恒星だった。待てども待てども沈まず、それは缶詰の白桃と黄桃と同じ色をしていた。

 誤った記憶を持った人間が騒ぎ出してたくさん電話をかける気持ちは僕にもわかるような気がした。しばらくして、玄関のチャイムが鳴った――戸を開けると上品な格好をした女。これに似た人間は僕の記憶にはいなかったが、花火大会に行こうと連絡が来ているのを思い出し、次いでこれが四歳年上の、少し自分よりも金を持っている恋人であるという事実が繋がって現れた。ミホは部屋に入ってくると箪笥から服を選び、僕を着替えさせた。デートの日だけ僕はミホの選んだ服を着る、そんな日々は確か三年ほど続いていたはずだ。本来の僕の衣服への消極性もあって、タンスも靴箱もミホの趣味に食い散らかされている。少し異なるが彼女の趣味は嫌いじゃない。出会った頃は会うたびに洋服をくれていた。洗面所で髪を整えてもらい、ピンクのスパンコールがぶら下がったピアスを左耳につけられると、僕らは葦で編んだ高級なサンダルを履いて車に乗った。これから花火のシーズンがようやく始まるから、できるだけたくさん行きたいと彼女は言った。毎年僕らが花火を見る展望台のことは、運転手の男も覚えていて、黙って車を出した。僕ら二人は後部座席でのんびりしていた。ミホは窓の外の街灯や街明かりを数えており、車は少しずつ山を上がっていく。背後で花火の音がし始めていた、分厚い雲の天幕が色づいては消える。展望台からは、十四ヶ月続くこの時期に東京で行われる二六個の花火大会を全て見ることができるが、実際に観に来る人間は毎回五人程度だ。今日は今年最初の花火大会なので流石に少し多いはずだ。ミホが窓を開けた、遠くからの花火の音は、土砂崩れを防ぐコンクリート壁に反響し重なった。風は冷えた塊で、ゆっくり車の中をくぐっていった。
 展望台が見え始めたところで電話が鳴り、僕は車に残り、少し話してからいくことになった。運転手は外で煙草を吸っている――巻紙がねずみ色をしている。電話は母からであった。
 ミホは先に展望台へ駆けていった。母の声は暗かった「おじいさんが入院したから見舞いに帰らない?死ぬかもしれない」僕は黙って花火と帰省を天秤にかけていた。祖父は今朝スーパーマーケットの屋上から飛び降り、今病院にいる、下半身が動かない、と母は言った。「意識は戻ったけれど頭が少し変になっている、あなたのことしか覚えていない、あなたが死んでしまうと狂って騒いでしまっている」
 隣の丘の上にある遊園地の観覧車にも花火見物の客がいるのが見えた。「夜行で地元へ帰ります。ミホには言わないでもらってもいいですか?」
 運転手の男は黙って頷き、最寄りの長沼駅まで私を送った、多摩川の溢れんばかりの水塊に無数の花火が映っては消えていく。電車に乗ったとき、僕はもうほとんどミホのことを思い出せなくなっていた。高速の街灯の列を起点に、花火が空へ上がっては舞い落ち、同時に水面へは下って咲き、上りながら消えていくのを眺めていた。花火はちょうど飽きないようなリズムでいくつも咲いては閉じた――僕は脳みそを解いて確かめたかった。ほとんどの人の記憶が二重にぶれていてぴったりとは重なりたがらないのだ、母や親友の記憶でさえも、一つの線では辿れない、しかし祖父だけは一つの過去の前に立っており、目の下の大きなほくろや、山道でひとりかふたりの客だけを乗せてバスを運転する姿や、老いても活発そうに前を向いた耳など――電車を乗り継ぐごとにその老人の呪いにも似た記憶が鮮やかになっていく。
 寝台特急のカーテンの隙間から目まぐるしく変わる小さな光の中に夢をみた。その世界線、インターネットで一人の3Dアーティストが話題になっていた――彼は地球の誕生を「遠い星の夢」という題のアニメーションに描いていた。小さな岩石が運命的に引かれ合い、歪な球を創る、球体の亀裂から炎がこぼれ、小さな隕石の衝突から球は二つに分かれ、仲良く整った球をめざし形を変え、踊り、水を蓄え、雷をはべらせ、緑が生まれ魚がトカゲや人へと成り、森は公園へ、学校になり、青い空を回転させた。やがて月がぱっと霞み巨大なガスの星に変わる、ここからが本題だ。地球の表面、つまり大地がペンキのように剥がれ、金属塊は異なる重力に操られたかのように肥大した。全ての変化が終わったあとも、シアン色のガスの星、もとは月であった星の巨大化が著しかったせいで、地球の変化はちっぽけに見えた。どうやら、月は惑星へと成り、今や地球が月になっているのだ。大気は青でなくシアンになっていた、この2つの星から映像はズームアウトする。星系の中心には、互いに引かれ合う二つの太陽があった。僕は月をまだみていなかったが、このアニメーションが自分の想像していたこの世界の変化と一致していることに気づき、異変が全て科学的に証明されたように思えた。自分が正しかったことが認められたのだと安心した。だが、僕は目を覚ました、リアルなアニメーションは僕の期待が作り出したものに過ぎなかったのだ。長い鉄橋の上を列車は走っていた。夢は絶望を深め、僕は元いた世界が戻ってこないことを悟った。鉄橋の下に広がる海は今日も藤色で、二つの太陽を反射させている。
 故郷に着いたのはもう夕方だった。僕は駅から直接祖父のいる病院へと歩いた。狂人扱いされた老人は隔離された上階の個室にいた――ぬるい風が走り抜ける廊下の奥にある一室の扉が開け放されていた。祖父の影がピスタチオ色のリノリウムに反射していた。祖父の影は木々の揺れる影の中でぴくりともせず、絶え間なく喋り続けているのは遠くまで聞こえる。部屋に入らずに僕はそれを聞いていた。
「僕の学生時分にはね、尻田川の水が溢れて田んぼが大きな池みたいになったんだけど、その中に単車が一台沈んどって、そのハンドルの上に一羽の鷺が止まって魚を探しよったんですよ。僕は田んぼに魚なんかおらんと思いよった。自転車止めて歩いていったら小さいタナゴが何匹も泳ぎ回りよって、ひょっとしたら普段から田んぼに魚が居ったかわからん。そんな風に思いよったらだんだん日が暮れていって、一個の太陽は橙色から赤へと変わっていくわね。田んぼも染まって、暗なっとるのは意外と気づかんのです。気づいたら、沈んどる単車は影になって、小さな島みたいに見えよった」
 僕は病室に入った。窓際に若い看護師がいた。彼女は丸椅子に座り、窓枠に肘をついて裏山から降りてきた野良犬を眺めていた。犬は病院の庭で首を掻いている。祖父はベッドで点滴をされたまま壁を睨み、僕の故郷の話を永遠に続けていた。僕が病室の入り口に立っても、祖父はこちらを向かなかった。
「看護師さん、孫です。会いたがっていると聞きました」看護師は僕に気づくとこちらへ向き直り、次は祖父をじっと見つめた。日は暮れていく、外の木々の中に電灯が二、三度瞬いて灯った。
「昔はね、月はすごい黄色かった。三日月なんかはちょっとオレンジ色がかっとったわ。ちょうど山吹色言うんかね。小いちゃいけど十分明るいんよ」
 やがて祖父の独り言が止んだ。今日は昨日と違いよく晴れていた、夜の色が違う、いつもより青みが強く明るい夜空だ。空そのものがぼんやり青緑色に発光しているようだった。看護師は祖父を起こし、車椅子に乗せた。
 祖父も看護師も話さなかった。看護師は部屋を出て階段室へ祖父を押していった。
「車椅子をあげるのを手伝ってもらえますか?」と看護師は言う。二人で車椅子を持ち上げ階段を上がると、屋上への扉の小窓のすりガラスがシアン色に光っていた。「私が押しますから開けてください」扉を開くと無数の真っ白のシーツが風にはためいていた。そして、その向こう、少しだけ見慣れた山並みの上に、もはや月とは言えない天体があった。そこにはシアン色のガス惑星が浮かんでおり、夜空の半分以上を隠していた。
「あなたのおじいさんは別にボケていませんよ。頭ははっきりしています。みんなが聞いてくれなくなっているだけだと思います」
 老人はシアン色に皺だらけの顔を明らかにしながら、再び話し始めた。
「僕の子供の時分は道路なんか舗装されてなかったからね、まあ車も少なかったんよ。窓がない車もいっぱいあったわ。雨の日に走りよったら泥水を跳ねつけられて脇の畑に転げ落ちたりすることもあった」
「なんだか懐かしくありませんか?」看護師は言った。
「はい。――もう、この星を空から見下ろしても、はっきりした青ではないと思うと、不安になります。放り出されたような気持ちだ。あなたはまだ昔を覚えていますか?」
「いいえ。ほとんど覚えていませんよ。でもあなたのおじいさんの話を聞いていると、あの頃の欠片が見つかるんです。気づかないだけで、消えはしないんでしょうね。でも、その記憶もだんだん呼び起こせなくなっていくんだと思います。あなたも少しずつ忘れていきます」
「僕らはもうあの星の景色を見ることはできないでしょう。シアン色のガス惑星が、故郷を夜空から遮っている。まあ、見上げるたびに地球や太陽を探してしまう毎日なんて惨めすぎるって、神様は知っているんでしょう」
「悪い神様ですね」
 僕と看護師が空を眺めている間も、車椅子の上で耄碌した老人は言葉を垂らし続けている――そのしまりづらい口から、もうどこにも見当たらない故郷の風景が、布に広がる本物の赤をした血のように。