フィルムの下の世界

 会社に行きたくないなと思いながら電車に揺られたのはこれで一体何千回目なのだろうか。目を開けた瞬間、ベッドから降りた瞬間、歯を磨いた瞬間、スーツを着た瞬間、革靴を履いた瞬間、最寄りの駅に着いた瞬間、そのすべての瞬間に会社に行かないという決断ができた瞬間が同居している。何千回掛ける何百回の瞬間瞬間に僕は会社に行くという決断をしている。いっそのことこの決断がなくなるように諦めがつけばいい。決断はそれだけで脳の容量を使うし使った容量はもどってこない。周りにいる黒い筒を背負ったスーツ姿の大人たちはいちいち決断何てせずにオートマチックに会社に向かっているのだろう。そうなれないと僕の脳はそのすべての容量を使いつくして焼き切れてしまいそうだった。会社の待遇に不満があるわけではない。同世代と比べれば羨ましがられるくらいの給料は貰っているし休みも多い部類に入る。だからといってそれが僕の仕事へのモチベーションをあげてくれるのかと言われればそういうわけではない。人が聞けば贅沢な悩みだと笑われてしまうだろうが僕にしてみればそんなことは奴隷が自分の主人を自慢しているようにしか見えなかった。そんな考えをもっていたところで僕が1人で何かできるかと言われればそんなことはない。所有者のいない奴隷は社会からまともな扱いを受けることは叶わないのだ。
 僕を乗せた電車は会社の最寄り駅に着いた。この駅は世界で最も乗降客数が多い駅とされている。その出勤の波に乗って僕は車両を降りて細長いホームを歩いていく。この駅は増築や改修がつねに行われており降りるたびに会社への道のりが変わる。僕はスマートウオッチから勤務先が払ってくれる通勤費を鉄道会社に横流しする。ロマンチック公園西口から出る。出るタイミングで一斉にみんな黒い筒から傘を取り出して差す。僕も筒から傘を取り出して差す。少しもたついて後ろの親父に舌打ちをされる。駅の外は気持ちのいい気温だった。空もからっとした青空でロマンチック公園の芝生でゆっくりと寝転んだら気持ちが良さそうだ。ちなみにロマンチック公園と言うダサい名前はロマン派の詩人たちが好んで園内を散歩したことに由来している。僕はその公園の横を通り抜けてもはや権威のためだけに一等地に建っていてやたらと高いビルの間を歩いていく。
 会社が入っているビルの前に大きなパラソルの下があるのが見える。パラソルの下には警備員がいた。僕は傘を閉じて中に入ろうとすると警備員に慌てて止められた。
「すみません。今日は傘を差したままでの勤務をお願いします」
「何かありましたか」
 僕はビルを見上げたくなる気持ちを抑えて警備員に尋ねる。
「フィルムの出荷が間に合わなかったようで張替が終わってないのです」
 僕は吹き出しそうになるのを我慢してわかりましたと答えて傘を差したまま会社の中に入った。僕が務めているのはさっきフィルムの出荷が間に合わなかったというフィルムを出荷している会社だ。僕が所属している総務二課のフロアに着くとオフィスにいる全ての人間が銀色や光の加減によって虹色に輝く傘を差していた。僕はそれを見て少し懐かしい気持ちになりながら自分の席に座った。右肩に傘をもたれさせて左手でデスクトップパソコンを立ち上げた。もう大半の社員が出勤をしている。隣の席の岩井さんも既に傘を差しながら業務に取り掛かっている。傘を差しているとコミュニケーションをとるのが少しだけ難しくなる。相手の顔が見えないし視界がほぼ遮られる。仕事ができてはきはきとした受け答えをする岩井さんが思いのほか可愛らしい顔をしていることを知ったのは入社してから2年経ったころだ。これはちょうどうちの会社がフィルムの出荷を独占したころと重なる。
 人類が傘を肌身離さず生活するようになったのはここ3年間の話だ。建物の天井にフィルムを張るようになったのはここ2年の話だ。


 3年前に人類は宇宙人から宣戦布告を受けた。プロキシマ・ケンタウリから来たというその宇宙人は英語も日本語もペラペラであった。プロキシマ・ケンタウリというのも地球人が使っている呼称なのでそのあたりの固有名詞の翻訳もすっかり地球に合わせて完了していた。翻訳の成果なのか宇宙人は自らを宇宙人と呼んだ。大きな宇宙船で宇宙人はやってきた。正しくは宇宙人がやってきたわけではない。宇宙船には何の生命体も乗っていなかったからである。中を確認してはいないが宇宙人の説明は理にかなっていた。宇宙人も不死の存在ではなく異星人に会うために何世代も宇宙を漂うのは何のメリットもないこと。地球人も月に着陸して以来どの惑星天体にも人間が直接アプローチしていないことが彼らの説明に説得力を持たせていた。そんなわけで宇宙人は人工知能を積んだ宇宙船に宇宙を探索させていた。長い間宇宙を漂っていた宇宙線は水の存在と生命がいる惑星地球を発見した。とんでもなく低い確率でしかない場合に備えてプログラムされていた仕事を宇宙船は開始した。まずは情報の収集を始めた。惑星としてのポテンシャルと主たる知的生物の文化レベルや生態。人類よりも詳細な地球の情報をまとめた宇宙人の人工知能は一瞬にして言語を習得し人類に宣戦を布告した。国単位ではなく地球人としての意思決定機関を持たなかった地球人は大いに慌てたが宇宙人の宣戦布告の内容は地球人からしてみれば拍子抜けするものだった。
 宇宙船はエアロゾル型のポリマーを地球の大気の表面を覆うように散布した。各国はこぞってポリマーの解析に乗り出した。しかしポリマーは地球の物質から一切の影響を受けなかった。光度計での測定や写真での撮影はおろか採取すらも叶わなかった。ポリマーと呼称しているのは宇宙人の呼び方に倣っただけにすぎない。ただ毒性などは一切認められずまた太陽光の透過率にも全く影響を及ぼさなかった。宇宙人たちは危害を及ぼすつもりなないという。宇宙人たちは思想を侵略するということだった。侵略する惑星に住んでいるものであろうと生命が活動できなくなってしまうことを宇宙人たちはなによりも忌避していた。ポリマーからは思想を洗脳する電波が発信されているらしかった。どのような思想になるのかは具体的に明かされていないが宇宙人たちに都合のいい存在になるのだろうことはなんとなくわかった。しかも宇宙人たちはその侵略に対抗する手段も教えてくれた。それが会社で取り扱っているフィルムだ。プリンターのようなものからそのフィルムは生成された。このプリンターはとても巨大なものであったが業務用の範疇をでないもので多くの企業が過去のノウハウで対応することができた。宇宙人たちはプリンターをリースするようになった。指名されたのは各国でもっとも規模の大きな印刷会社であった。初めのうちは宇宙人が仕掛けてきたものから身を守るために料金を払うのはおかしいという反対の声もあったが未知の洗脳と比べたときに良心的な使用料を払うのは大した問題にはならなかった。それに電子化の波に煽られて不況に苦しんでいた印刷業界は大いに潤った。印刷会社が結託して仕込んだ陰謀論なのではないかと皮肉が言われるほどだった。
 このフィルムの厄介なところは使用期限が極端に短く3日ほどで劣化してしまうところだった。そこで傘に貼って3日立つ前に塗り替える。これが通常の思想侵略への対処法であった。人類は傘が手放せなくなった。家でも電車でも車でも皆思想侵略を恐れて傘を差した。シャワー浴びる時は傘の下にシャワーヘッドをいれて浴びた。寝る時はフィルムを蚊帳のようにして眠った。僕は当時高価だった蚊帳型フィルムを手に入れることができずに何度も座ったまま眠った。そのせいで今でも眠りが浅い。
 ある程度設備が整い大量供給が叶うようになったあとは屋根に貼って高頻度で張り替えることもできるようになった。傘を傘立てに置いておく時間が長くなったのだ。ただフィルムの量が多く貧乏人には手が出るものではなかった。公共施設や公共交通機関、大企業や金持ちだけが屋根にフィルムを張った。商業施設は店の前に傘立てを置いておけることが高級店の証となった。
 現在は前述のような仕組みに落ち着いたが人類も宣戦布告直後はささやかな抵抗をした。アメリカとロシアはこぞって我先に宇宙人を懐柔しようと暗躍したが全くもって相手にされなかった。両国ともに利益を得ることが出来ないことが確定すると両国の思惑が同じとなり宇宙人を駆逐する方向に動いた。同盟国から資金援助を受けると大量に保有していた核兵器をロケットに載せて次々に打ち上げた。戦争になっても使用することのなかった古い核兵器から順番に打ち上げられた。宇宙船はもともと太平洋上の大気の中にいたのだが核兵器を使用してくるタイミングを見計らって宇宙空間へと退避していた。人類が計算した核兵器の放射能汚染が影響しない距離の1.5倍ほど離れた位置に停泊した。そのおかげで各国の首脳は心置きなく核兵器を使用した。地球中の人たちがテレビやネットの中継を見守った。この時の視聴率はワールドカップ決勝の視聴率を同じだった。結局地球上にあった40%の核兵器が使用されたが宇宙船には傷一つつかなかったしポリマーも相変わらず地球の大気の表面を覆っていた。地球の人々は落胆もするにはしたがやはりなという気持ちだった。
 宇宙人は宣戦布告をするときに全地球人の脳内へと語りかけてきていた。この時点で人類は混乱して恐怖を覚えていたがその根底には敗北心があった。圧倒的テクノロジー、未知の技術分野に加えて人類のことを完璧に理解しているように思えた。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。宇宙人は彼も己も知っていたが人類は彼も己も知らなかった。宇宙人は宣戦布告をした段階で人類にどうあがいても勝てないと思わせることに成功していた。地球の自然の常識で言えばそんな圧倒的存在に出くわしたら一方的に蹂躙されるだけだ。尊重されるためには強くなくてはならない。そんな世界で生きてきた人類がただ傘を差せば許されるのであれば皆で傘をさすのは当然の成り行きだった。


 会社では社員のメンタルヘルスを管理している。PCで見ているのは残業時間や生産性だ。うちの会社は圧倒的に重要の大きな会社なので営業や技術職が必死になって売り上げを確保するような働き方をする必要はない。そうなると当然残業時間も少なくなる。それでも会社の不思議なところでブラック企業並みに残業をしようとする輩が出てくる。僕には全くもって理解できなかったが労働時間を延ばすことに文字通り命を懸けているみたいだ。それで生産性があれば目をつむってもいいのだろうがそういうわけでもないようで僕の仕事がある。社員が昼間のうちに仕事を終わらせるように監視をしている。僕のディスプレイには各社員のアプリケーションソフトの稼働時間とデータのインプット量が表示されている。仕事にも慣れてきて今では20人×5班分を任されている。あまり成果のよろしくない社員に対しては面談の機会を設けたりする。僕は臨床心理士の実務経験が3年間ある。心理学科を出た僕がこの畑違いの大手印刷会社に転職できた唯一の理由だ。心理学科を出たというとエスパーのように考えていることがわかるのかとか正しい心理状態に矯正してくれるのかと言われることがあるがそんなにいいものではない。僕はあくまでも上が決めたマニュアルや方針にしたがって情報を開示するだけに過ぎない。それはたぶんコンビニの店長がエリアマネージャーの指示通りに陳列棚へとサンドウィッチを並べる仕事と本質的には同じことだ。
 隣の席の岩井さんは僕の2歳上の先輩で同僚だ。小柄だがパンツルックのよく似合うショートカットの女性だ。仕事ができる人で入社したてのころは丁寧に仕事を教えてくれた。岩井さんは傘をくるくると2回回した。彼女の癖だ。その癖を見ると僕はちょっかいを掛けたくなる。
「岩井さん、雨ふってないですよ」
 冗談を言うと一瞬仕事の話かと思って張りつめた緊張感がふっと緩んで花のように笑った。
「そんな古いジョーク使っているのは君だけだよ」
 岩井さんはそう言ってディスプレイを指さして僕に見せる。僕は自分の傘を傾けて岩井さんの傘に入って覗き込む。ディスプレイは黄色で埋め尽くされていた。
「まさかフィルム会社にいてフィルムの張替が間に合わないとはね。自社の分を回してなんとかなったみたいだけど。ほら、そのせいで社員のストレス値は爆上がりよ」
「すぐになんとかできることじゃないですからね。理由も明確ですし」
「そうなんだけどさー。なんか落ち着かないよね。画面がこうも黄色いと」
「サボってるみたいですよね」
 普段であれば黄色信号はすぐにでも面談を組んだり午後の半休与えたりして画面を白色位に戻す。ただ今回は明らかに回避不可能な理由で黄色になっているのがわかりきっているので特に手の打ちようがない。
 互いの傘に入りあう僕と岩井さんの関係は非常に良好だと思う。仕事終わりに飲みに行って愚痴を聞いたり言ったりする。セックスはしたことがないがたぶんどちらかがしようと思った瞬間にその機会は訪れる気がした。がそれは同時にその機会は決して訪れないこととも同義だ。知的好奇心でセックスをする年齢は当に過ぎた。僕は職場でそういう関係になるのは不要なトラブルを呼ぶので避けていたが岩井さんも同じ気持ちなのだろうと思う。何より友人関係として非常に心地がよかった。セックスをするにはいいが友人として過ごすには違うなという女の子が男には少なからずいるだろう。セックスをする相手に求めるものと友人になる相手に求めるものは勿論違うのだ。そして僕の場合は友人に求めるもの方がセックス相手よりも珍しい特性になってしまう。そう考えるとせっかく彼女と過ごす時間をセックスに当てるのは時間の無駄のように思えてならなかった。あとセックスするのはコンドーム以外にも蚊帳型フィルムを用意したりとノリと勢いでするには大分面倒臭いものになってしまっている。
「そうだ」
 そう言って振り返った岩井さんの肩が僕の傘の柄に当たってお互いの傘が床に落ちる。頭の中に心地のよい金属音が流れる。スティールパンを雨粒が優しく叩くような音だ。岩井さんは声にならない悲鳴を上げて自分の傘を拾った。僕はそこから一呼吸遅れてから傘を拾う。
「大丈夫ですか」
「ええ。また今度話すわ」
 岩井さんの顔色はすこぶる悪そうだったが今は傘に隠れてしまって見えない。さっきの音は思想侵略の音だ。宇宙人いわくあの音を短期間で累計1時間ほど聞くと侵略は完了するということだった。たださっきのような1秒2秒のアクシデントはよくあることで岩井さんほど大慌てするほどのことではない。
 僕は岩井さんの顔色が必要以上に悪かった理由を知っている。一昨日、岩井さんと会社近くの韓国風居酒屋で飲んだ。飲むことになったのは彼女が愚痴を言いたくなったからだ。岩井さんは聡明でスマートだが自身の恋愛になると途端に盲目になってしまうタイプだった。浮気された挙句に振られた元カレに呼び出されて会ったついでにセックスをしたらしい。安い女だなと思うが彼女の面白さはそんなところにはない。彼女はコンドームはつけさせたが蚊帳型フィルムは使わなかったらしい。そのせいではほぼ1時間あの音を聞き続けたようだ。あの音を聞きながらのセックスは最高だったらしくすぐにはやめらなかったとい話だ。急に生々しくて食べたばかりのチキン南蛮を吐き出してしまいそうになったが顔をしかめるだけで我慢した。面白おかしく話す彼女の目が泳いでいて不安を隠すための大きなジェスチャーに僕は気が付いていた。
 思想侵略が終わるとどうなるのか。それは宇宙人の説明では日常生活は問題なく送ることができるらしい。宇宙人の言い分ではまるで害がないように説明された。事実、宣戦布告から3年以上経つが地球の営みは何一つとして変わらなかった。それでも人類は唯一の抵抗だとしてフィルムの傘をさしてフィルムを張り替え続けた。電車の隣に立っている人の思想侵略がすでに完了しているのかどうか外からみても何も分からなかった。宇宙人は思想侵略がどのくらい進んでいるのかの情報は一切開示しなかった。人類はこれを全然進んでいないから言わないのだと一方的に勝利宣言をしていた。ただ人類には思想侵略が何なのかどのくらい完了しているのか何もわからなかった。隣に座っている岩井さんだってもうすでに思想侵略が終わってしまっているのかもしれない。宇宙人の言い分を信じるのであれば岩井さんは思想侵略が完了していたとしても変わらず会社にきて僕と飲みに行くのだろう。もちろん僕だって思想侵略されてないと言い切る自信はない。
 木曜日の14時を過ぎるとスプレッドシートで会社の売り上げが共有される。僕には実感のわかない天文学的な数字だ。粗利が大雑把に表示されるのでここから経費などが引かれていくので少しだけ少なくなる。詳しくは知らないが宇宙人に納めている金額は全体の4割ほどらしい。外で太鼓の音が鳴る。それに続いて大衆の大声が響く。
“フィルム生産反対!!!!フィルム生産反対!!!!偉大なる流れに身を任せよ!!!!偉大なる流れに身を任せよ!!!!”
 社員のほとんどがため息をついたのがわかる。ビルの外ではデモ隊がフィルムの生産をやめるように大合唱を始めた。最近はお休みだったのか聞いていなかったが久しぶりに活動をしている。デモ隊はフィルムを使うのをやめた人々で構成されている。芸能人も多く参加していて落ち目のロックミュージシャンや名前は聞いたことのある俳優が参加を募っていた。このデモ活動が思想侵略が終わったから行われているのかもともとデモをする人たちなのか僕にはわからなかった。平日の昼間からデモができるのであれば思想侵略されても問題ないような気がした。僕はイヤフォンを付けるとヨーヨー・マの引く無伴奏チェロ組曲第一番を流す(https://open.spotify.com/track/17i5jLpzndlQhbS4SrTd0B)。宇宙人がフィルムを生産をさせるのは地球の通貨を手に入れて経済面から支配をするためだという考えがある。だからフィルムを生産しているのは宇宙人の侵略に手を貸しているのだという理屈だ。確かにそうかもしれないがそんなまどろっこしいことをする義理が彼らにあるとは思えなかった。侵略しようと思えばもっと簡単にできるはずだった。それに通貨なんてものは信用でなりたっているのだからいくらでも無価値にできる。それで平穏な日々が保証されているなら大した問題ではないように思えた。それに新しい産業の誕生で明らかに経済は宣戦布告前と後では後の方が豊かになっている。経済侵略を逃れるためなら傘なんて差さなくてももいいと思ってデモをしているのだと思うと僕はうんざりした。
 僕からすれば宇宙人はシミュレーションゲームしているように思えた。脳内に金属音が流れる電波を出して一体地球上の何人がそのフィルムの下の生活に耐えるのか賭け事をしているに違いない。5年たったときに地球の総人口の何%がフィルム下の生活をしているのか%ごとにオッズがあるのだ。僕だったら30%に懸ける。案外悪くない数字な気がしている。
 午前中の仕事が終わるころにヨーヨー・マは3周目の第六番を弾き終わった。イヤフォンを外すとデモ隊の声は聞こえなかった。お昼休みに入ったらしい。僕もお昼休みに入るので隣の岩井さんをランチに誘う。デモ隊がいると外に出るのは面倒なのでビルの中にあるコンビニで適当に買ってすます。
「ランチいきませんか」
「ちょっと待って。おっけ」
 岩井さんはPCをスリープモードにすると傘をもって立ち上がった。さっきまでの動揺は落ち着いたみたいだ。2人でエレベーターに向かう。傘を差していると2人乗りが限界なので運が悪いと階段を使うことになる。エレベーターの前にはかなり長い列ができている。
「ちょっと厳しそうね」
 今日は運が悪い日だったようで階段へと方向転換する。総務二課のあるフロアは屋上の方が近い。それに対してコンビニは一階にあるのでかなりの階段を下りないといけない。岩井さんは見た目こそ趣味はアフタヌーンティーですと言いそうな感じだが週末はよく登山しているらしく軽く階段を下りる。僕は運動がからっきしなので階段という選択肢を取ることはほぼない。降りるくらいなら昼休みが終わってもエレベーターを待つ。階段の上り下りを面倒に思ったことがばれたのか岩井さんが笑う。
「わかりやすすぎ。自販機で買って屋上で食べましょう」
「助かります」
 休憩室の前のスペースに置かれた菓子パンの自販機の前に行く。岩井さんはイチゴサンドとミルクティーを買った。おごりだといって僕にはハムサンドとコーヒー買ってくれた。屋上までは3階分の階段を上ることになる。僕の前を歩く岩井さんはパンプスだが軽快に階段を上る。傘を二回ほどくるくると回す。階段を上るときも出るのだと思うとおもしろかった。パンツルックなので彼女のお尻がちょうど僕の視線の高さにくる。お尻の形には人となりが出る。締まっているが愛想よく揺れているのは岩井さんらしかった。ただこれが岩井さんが登山をしていることやフィルムをしないでセックスをするような女であることを僕が知っているから抱く感情なのかは確かめようがなかった。
 屋上には誰もいなかった。大企業として緑化にも興味があるらしく申し訳程度の観葉植物が植えられている。光合成よりも呼吸の方が活発な植物もあることを知らないらしい。その側にはベンチが置かれていて二人で横並びに座る。岩井さんはイチゴサンドの包みを開けようとするが傘のせいで片手がふさがっていてうまくいかない。僕が傘をもってあげると両手で開けて両手でイチゴサンドを食べ始めた。
「傘持ってください」
 岩井さんはいたずらっぽく笑うと傘を受け取った。
「本当に面倒な時代に生まれちゃったわね」
 そう言って僕の傘を受け取ってくれる。僕はハムサンドを開けながら聞く。
「さっきの話って」
「大した話じゃないんだけどさ。来月の初めからお休みもらおうかなって」
「どっか悪いんですか」
 僕は岩井さんから傘を受け取りながら聞く。
「ううん。ちょっと気分転換にね。うちの会社リフレッシュ休暇あるでしょ。あれを使おうと思って」
「いいですね。リフレッシュ。何するか決めたんですか」
「なーんにも」
 下の方から太鼓の音と怒号に近いデモ隊の声が聞こえる。
“フィルム生産反対!!!!フィルム生産反対!!!!偉大なる流れに身を任せよ!!!!偉大なる流れに身を任せよ!!!!”
 彼らのお昼休みは終わったみたいだ。岩井さんは立ち上がってフェンスの方に向かう。僕もコーヒーをベンチに置いて後に続いた。
「傘を差さなくてもいいってどんな気持ちなのかしら」
「彼らに抱くとすればデモってどんな気持ちなのかしらが正しそうですよ」
「それもそうね」
 岩井さんはミルクティーを飲みながらデモ隊を見下ろした。
「私も傘を差さなくてもよくなったら会社なんて行かないであそこにいるのかな」
「岩井さんは思想侵略が終わっても傘を差して会社に来ますよ」
「そう?そんなにつまんない?」
「つまんなくないです。みんなそうなんだと思います」
「結局つまんないってことじゃない?」
「それで岩井さんがつまらないなら岩井さんの責任じゃないです」
 岩井さんは傘をたたみ始めた。僕は慌てて岩井さんを自分の傘に入れた。岩井さんはやり投げの要領で傘を投げようとしているのだと気が付いて止めようとしたときには岩井さんは自分の手で止めていた。
「誰かに当たったら危ないものね」
「そうですね」
 彼女は振り返ると僕のことを見上げた。
「ありがとう」
 そう言って自分の傘を差す。ミルクティーを僕に手渡すと階段の方に向かって歩き始めた。彼女の傘はぴくりともせずに鈍い太陽の色を反射させていた。