傘はいつでも差しておくように

 浅いところには庶民が住む。深いところには金持ちが住む。エレベーターが垂らされた糸に従うように地面を降りてゆくと、ドアが開くたびに、ひとり、またひとりと住民はそれぞれの住居に戻っていき、ついにエレベーターの中には彼だけになった。彼は成功者だけが味わうことができるその長距離移動に満足するにはまだ若すぎた。ただ両親がその見栄のためだけに、通学にこれほど時間のかかる低層階に住居を構えたことが疎ましく思われるほどであった。
 彼は自宅のある階にたどり着くと、廊下を一番奥の部屋まで進んだ。高級住宅らしく、廊下は煌びやかな照明で照らされていた。彼はそれにまつわる話を両親から何度も聞かされていた。当代で最も著名な内装屋が、かつてわれわれが当たり前のように目にしていた夕陽の光をかなりの精度で再現することに成功したらしい。われわれの本能に訴えかける、あたたかく柔らかな光――それが、宣伝文句だった。
 「保険の申し込みはしてきたの?」部屋のドアを開けると、リビングの方から母親の声がした。
 「ああ」彼は言った。「忘れてた。明日やってくるよ」
 「そう言ってどうせ忘れるんだから、駄目よ。今行ってきなさい」母親は厳しい調子で言った。
 「明日行くよ」
 「あと」母親が付け足した。「水道の調子がよくないの。後で見といてくれない?もしかしたら建物全体の問題かもしれないけれど」
 彼は適当に相槌を打ち、不満そうな母親をかわして自分の部屋に戻った。そこは地上への憧れで溢れていた。古い映画に出てくる、強烈な太陽の光を浴びた若者たちが、壁のポスターから彼を見下ろした。俳優たちの中にはサングラスをかけている者もいた。彼は両親に内緒でいくつもサングラスをコレクションしていた。彼の机の二番目の引き出しには、そういった地上への夢が雑多に収納されている。彼はその中から一つのサングラスを取り出し、鏡の前でかけてみた。そして、ちょっと気取った様子でポスターの方をちらりと見た後、そのままベッドに倒れ込むように横になった。
 もうすぐ、このサングラスが文字通り日の目を浴びる時が来る。
 かなり保守的な地区だったこのグレイ・エリアにも、現代の教育改革の波はやってきていた。彼の身の回りでも、あまり裕福でない子供でさえ、地上の体験をいくつか積んでから就職活動に臨むことが通例となっていた。彼ほどの家庭ならば、息子を一度地上にやってから社会に送り出したいと考えるのが当然であった。ただし、彼の両親はいささか過保護でもあった。両親は生涯地下から一度も出ずに成功を収めたので、息子にも同じことを期待した。彼が望むものを勝ち取るには長い戦いがあった。いくつかの醜い言い争いの夜を超えたのち、地上行きの話がまとまった。彼は地上への半年間の留学を希望したが、最終的に許可されたのは二週間のボランティアだった。それでも、彼にとっては心躍る経験となるであろうことは間違いなかった。
 地上行きが決まった後、両親は彼に様々な準備をした。彼の机の上には、地上のガイドブックが山積みになっていた。地上の食事が口に合わなかった時のための非常食があった。そして、銀色で紫外線を通さない巨大な傘があった。彼はそのどれをも持って行くつもりはなかった。両親が通販で購入した傘を自室で初めて広げた時、彼はそのあまりの不格好さに驚愕した。
 傘――それ自体は、サングラスと並んで彼の憧れの小道具の一つであった。彼は古い映画の雨のシーンを好んだ。ステッキのように細い傘が空を向き、捕食者のようにパッと大きく広がるさまには惹きつけられるものがあった。ただしそんなシーンで登場する傘は両親が買ってきた宇宙船のようなデザインのものとは程遠い。彼は地上で旧式の傘を調達するつもりでいた。そして地下に戻ってもそれを家宝としていくのだと心に決めていた。
 彼の地上への出発が近づくにつれ、夕食の席ではそのことばかりが話題になった。父親が帰宅し、夕食の席でいつものように彼に注意を与えた。
 「まだ保険の手続きが終わっていないと聞いたぞ。出発はもう明後日だろう?大丈夫なのか」
 「大丈夫だよ。出発当日までに書類を出しておけばそれでいいんだから」
 「荷物はもう纏まったのか。傘を忘れるな。いつでも差しておくように」
 「なんだって?」彼は驚いて聞いた。
 「傘はいつでも差しておくように」
 「いつでもって……雨が降った時に差すもんだろ」
 「最近では地上の紫外線が強すぎて地上の人間はいつでも傘を差しているらしい」父親は、”地上の人間”という言い方をした。彼の父親にとって、貧困のために安全な地下に移住することが叶わなかった地上の人々は、どこまでも異質なものであった。「あと、雨が降ってから傘を差すのは遅すぎる。雨なんて一滴たりとも浴びちゃいけない。地上の雨なんて何が混じっているか解りゃしないんだから」
 「ずっと傘差してる訳ないだろ。ダサすぎる。みんなそうしてるって、それを見たというんじゃないんだろ」
 「同僚がそういっていたんだ。地下で育った人間は皮膚が弱いんだから尚更気をつけろ」
 「雰囲気を見てそうするよ」
 「絶対にそうしろ」父親はきっぱりと言った。「常に傘をさしておけ。それができないなら今から中止にしたっていい」
 またしても、ここ数ヶ月の間にこの一家が何度も経験した険悪さが部屋を支配しようとしていた。彼は渋々了承した。
 彼はその日、夜寝る前に両親に買い与えられた傘をもう一度開いてみた。径が大きすぎる。ゆうに五人は匿えそうな大きさだ。彼は諦め、この傘を地上に持参することとした。それを差して地上を歩き回る自分の姿を想像して、ため息をついた。


 出発の朝は、両親はにこやかであった。一人息子を初めての地上に送り出す心配が目に見える思いやりに変わったらしい。当初息子の地上行きに猛反対していた母親などは、土産は何々が良いなどと言い、半ば緊張している彼の気分を逸らさせる優しさを見せた。父親も、出発当日となると不思議なことにいっさい小言を言うのをやめ、ただ気をつけるようにと言って、彼を送り出した。
 彼は大きな荷物を持って、エレベーターを登って行った。当分これに乗ることもなくなる。途中の階で何度も止まることでさえも、彼にとっては普段感じているような迷惑というよりは、むしろあたたかい感傷を増幅させるものに感じられた。見知った顔ともしばらくの別れとなる。大きな荷物、そして手に傘を握った彼は、どこからみてもこれから地上に出る戦士であった。エレベーターに乗り込むものは誰であれ賞賛か憧れのどちらかの感情を表情にのぞかせた。それが彼にも感じられて誇らしかった。
 「出発か」地上への留学をすでに終えた一つ上の先輩が、彼に話しかけてきた。
 「たった二週間ですよ。もう少しいたいものですがね……」
 「それでも、初めてだろう。地上はよかった」先輩は懐かしそうに言った。
 彼は傘について尋ねようか、迷った。殊更に傘をいつでも差しておくべきかなどと先輩に尋ねるのはなんだか格好が悪い気がしたが、不安を感じていることは間違いなかった。先輩の目が彼の握っている不釣り合いなほどに大きい銀色の傘に注がれた気がした。
 「すごい傘だな」
 先輩は少し面白がっているように見えた。それで、彼が傘について先輩に相談することはついぞなくなってしまった。先輩は別れを告げ、学校の方角へ向かっていった。彼は今日はそれとは反対の方向に歩き出した。
 グレイ・エリアは周辺の地下都市の中でも特に天井が低い町として知られている。他の都市では、高い天井から広い範囲を照らすので、光が遠くまで届く大きな橙色の照明を使用していることが多いのだが、この地域では照明は小さく、クリスマスの電飾のように道に沿うように設置されており、全体的な色味は白に近い。それがコンクリートの色を際立たせるため、開発当初から周囲の人間はこのエリアをグレイと呼んで忌み嫌っていたらしい。最近では低層建築技術が発達したおかげで、都市の共有エリアは天井が低いままだが、驚くほどの深さを持ったマンションや商業施設、オフィスビルなどが増えてきており、富裕層の流入が著しい。当初の開発であまり広くない空間を作ったが故に、低層建築でかなり深くまで掘っても建築基準に準拠した強度を維持できるのである。
 彼は地下鉄を二度乗り換え、地上につながるエレベーターがあるターミナル駅に辿り着いた。彼にとってはその駅さえも初めての経験だった。地元では経験できないような人の流れに押されながら、彼はエレベーターの改札のほうへと向かった。
 「地上に行かれる目的は」改札で職員が無愛想に聞いた。
 「ボランティアです」
 「なんの」
 彼はそのぶっきらぼうな物言いに苛立ったが、素直に答えた。「子供への語学教育」
 「期間は」
 「二週間」
 改札を過ぎ、傘のことを聞いておけばよかったと後悔した。ただ、あのような無愛想な職員に尋ねたところで、丁寧な回答が返ってくるものだとも思えなかった。
 目の前の巨大なドアが開いた。地上に向かうエレベーターは一軒家が丸々収まりそうな大きさがある。内部はチラリとしか見えなかったが、映画館のような椅子が並んでいるように見えた。地上へ行くには時間がかかるので、皆座席に座って上向きに進んでいくのだろう。彼はターミナル駅の中にある、人の流れが見下ろせるカフェに座り、自分の番を待った。そのエレベーターに乗って地上へ向かう人、逆に地上から降りてきた人の流れを眺めることを楽しんだ。どれが地上出身の人で、どれが地下出身の人なのかは全くわからなかった。彼は父親の大袈裟な言動を思い出し、笑った。なんだ、大したことないじゃないか!父親はいつでも地上の人間を未開の原始人か何かのようにいうけれど、そんなことはない、見た目だって我々と同じだ……それに、俺が持っているようなバカみたいな傘を持ち歩いている人なんて誰一人としていないぞ……。
 彼は心が幾分楽になるのを感じると同時に、無意識下でかなりの不安を覚えていたことを自覚して、恥ずかしい気持ちになった。それから、彼の乗る箱が地上にやってきたのを見て、列の方へと歩いていった。


 出発から一時間ほど経っても、エレベーターは速度を緩めることがなかった。彼は前方のスクリーンに表示されている地下のニュース映像をただぼんやりと眺めていた。せっかくならば地上の映像を先に見ておきたい気もしたし、それは実際に自分の目で見てみるまではとっておいた方がいいような気もした。
 旅の間中、彼は誰とも口をきかなかった。彼の横に座っていた大男は、灰色の口髭をはやし、かなり無愛想そうに見えた。大男はずっと地上の地理学についての難しそうな本を読んでいた。地下出身の学者か何かに違いなかった。彼がトイレに行ったり、シアターの脇にある商店でコーヒーを買って戻ってきたりするたびに、大男は面倒臭そうな顔をして足を引き、彼を通した。それで彼は、またしても地上の傘事情についてたずねる機会を失った。
 エレベーター内のアナウンスが聞こえてきた。
 「……イエロー・ツリー行きのバスは16時30分から。シーサイドモーテルへお越しの皆様もこちらをご利用ください。当機はまもなく地上に到着いたします。もうしばらく快適なエレベーターの旅をお楽しみください。地上では傘をお忘れなく」
 到着すると、乗客は一斉に出口を目指した。彼は、大男が大きなバッグから小さく折り畳まれた傘を準備したのを見て、緊張した。どうやら父親の言う通り、地上ではずっと傘を使うものらしい。それから、大男は胸ポケットからサングラスを取り出し、かけた。彼は、その動きを観察していたことを悟られないように、少し時間を置いてから同様にした。
 列に沿って到着ロビーにたどり着いた時、彼は大きな窓に囲まれて、そこで地上の光を初めて体験するものだと想像していた。しかし、実際には到着ロビーは窓のない、白い壁に囲まれた空間だった。そのことが彼の初めての地上の光への憧れを焦らせた。
 彼は巨大な駅の中を進み、イエローツリー行きのバス停に向かった。バスというものに乗るのも初めての経験であった。彼の知っている古い映画の中にはバスの旅をするものが一つだけあった。その映画の中では、かつてモロッコと呼ばれていた地域をバスツアーで旅行する観光客が、現地の少年たちの誤射された銃弾に当たり、緊急で手術を受ける場面があった。彼はそのシーンのショッキングな一面というよりも、バスの中からの光の美しさに心を惹かれたことがあった。窓の桟を通り抜けた光が緑がかって向かいのシートに到達する光景を見てみたいと思った。
 しかしながら、屋内バスターミナルに到着したバスも窓のない、殺風景な巨大な箱に過ぎなかった。彼はがっかりした。
 「どちらまで」車掌が彼に聞いた。
 「イエロー・ツリーまで」
 「あのあたりは近年治安が悪くなってきているから気をつけて。良い旅を」車掌がにこやかに言った。
 彼はその言葉に不安を感じながらも、バスの後部座席に収まった。大きな傘を座席上の荷物棚に置こうとした時、横の席の老婦人に声をかけられた。
 「あなた。そんな立派な傘を荷物棚なんかに置いておくものじゃないわ。肌身離さず持っておきなさい」
 バスの旅はエレベーターでの旅よりも少し長かった。彼は外の景色が見たくて仕方がなかったが、乗客はただ人工的な光に照らされるのみだった。これでは地下鉄となんの違いもないではないか、と彼は思った。
 しかし、バスがイエロー・ツリーに到着し、その出口が空気の抜けるような音と共に開いた時――彼は入り込んできた光が、それまでのものとは全く異なることを認めた。まるで光の方から強い意志を持って我先にと入り込んできているかのようであった。その光は彼に輪郭のはっきりした高い音を思い起こさせた。彼は降りる客の列に混じって躓きながら通路を進んだ。右手にはしっかりと傘を握った。
 バスを降りると、彼の視界はまず真っ白になった。濃いサングラスをかけていたにもかかわらず、太陽光は強烈だった。彼は軽いめまいを感じた。しばらくして目が慣れてくると、彼は何よりもまず、その空間が水平方向にどれだけ大きく広がっているかに圧倒された。色の薄い、サラサラした砂の大地に、短い草が絡みつくように生えている。ひび割れたアスファルトの一つ一つに奥まで太陽の光が染み込んでいるように見える。道沿いには白い石のようなものでできた家々がまばらに建っている。道路にも周囲の空間にも人は全くおらず、まるでこのバスの乗客が全てであるかのようである。しかし生活の実態はそこかしこに認められた。ある家は庭を持ち、そこにはロープがかけられ洗濯物を干しているところもある。少し離れたところに、青いタイルで彩られた尖塔のようなものが突き出しているのが見えた。しかし、それを除けば大地はどこまでも続いていた。そのことが、尖塔を一際高く見せるのに役立っていた。
 あの尖塔は、縦の長さでいえばうちの家の深さとは比べ物にならないくらい低いだろう……と彼は思った。しかし、あれほどまでに高く見えるのは……。
 乗客は、バス停の屋根の下から出ると皆、すぐに傘を差した。それは父親の助言を裏付けるものではあったが、しかし現地の人々がどうしているのかはまだ確認できてはいなかった。もしかしたら、地下からやってきた人間だけがこんなにも晴れた昼間に傘を差すのかもしれない。彼らは道に連なり、尖塔の見える方向に歩き始めた。皆の傘は乾いた道路を色とりどりに埋めた。ある者はエレベーターでの大男のように、ポケットに収まりそうなサイズのもの、ある者は衣服から手作りしたかのような、簡単な骨にぼろ布を接着しただけのように見えるもの、ある者は縁取りにレースがあしらわれた黒いもの。それらは人々が歩くに従って軽く上下に揺れた。それによって角度がつき白っぽく光って見える瞬間があった。少年は他の皆がバス停の屋根の下から出て行くのを待って、特大の銀色の傘を開いた。そして他の人々と少し距離をとって、同じ方角に歩き始めた。誰も彼のことを気に留めない。
 尖塔付近はどうやらこの村の中心部分のようであった。その付近に差し掛かると道をゆく人々もまばらに増えてきた。果たして、現地の人々も皆傘を差していた。彼らは基本的には自作の傘を差しているようであった。閉じるという機構がついていないものが大半のように見受けられた。そのあたりで拾ってきた木の枝にスカーフのようなものを組み合わせただけのものが多い。現地の人々は彼の巨大な銀色の傘を訝しむような目つきで見た。遠慮なく立ち止まって彼の傘の先から爪先まで眺め回すものもいた。彼は緊張した。
 彼の目的地はその村の中心部からまだ少し行ったところにあった。そこは海の近くということだった。彼は生まれて初めて海を見るということにもなっていた。しかし今ではそれに対する期待よりも無事に語学学校へ到着することへの不安の方が大きくなっていた。彼は地下からの乗客たちに軽微な仲間意識のようなものを感じ始めていたが、乗客たちは皆村の中心部に目的地を認め、ついに道を歩くものは彼一人になった。彼は自室で読んでいたガイドブックの指示を忠実に守り、何十歩か進むたびに後をつけられていないか後ろを振り返った。彼のことを興味深そうな目で見るものがいれば、彼は警戒してそこを早足で過ぎ去った。
 村の出口あたりに警官のような男がいた。黒っぽい制服に身を包み、それに合わせるようにこじんまりとした黒い傘を差している。
 「どこへ行くんだ」警官が地下のことばで彼に声をかけてきた。
 「シーサイドモーテルの方に少し行ったところまで」
 「何のために?」
 「そこの語学学校に行くんだ」
 地下からきた、と勘付かれているには違いないが、あえてはっきりとは言わなかった。彼は警官の目によそ者を見るような目を感じ取った。ここで少しでも面倒を避けたかった。
 「そうか」
 警官は目の焦点があっていないような感じで頷いた。彼は何を求められるのかわからなかった。身分証か?
 「何か身分を証明できるものはあるか?」
 警官は面倒臭そうに言った。彼の方でも面倒だと思った。彼は傘から手を離し、肩にかけ、カバンの中から身分証を探った。
 その時――何者かが後ろから彼の傘を奪って走り去っていった。
 彼には後ろに何者かが迫っていたことにも気が付かなかった。彼は振り返って追いかけたが、盗人との距離は遠ざかるばかりだった。盗人は彼が先ほど通り過ぎた村の路地に逃げ込み、数回曲がって姿を消した。彼は諦めざるを得なかった。彼は心臓の鼓動を感じながら、警官のところまで戻ってきたが、警官も姿を消していた。
 やられた。
 鮮やかな手口だと思った。あの警官が本物であるかどうかも今となっては怪しい。仮に本物だったとしても、賄賂をもらうなどして、地域の悪党と手を組んでいるのかもしれない……。彼はとにかく、海の近くにある語学学校に急ごうと考えた。そこで事情を説明すればいい。彼にはいとも簡単に地上の人間の魔の手に絡め取られたことが何より悔しくあった。昔の映画に出てくるような、タフで、物怖じしない若者への憧れが心の中で崩れ落ちた。実際に彼は膝から地面に崩れ落ちんばかりであった。地面を踏み締める感触だけが支えとなった。彼は早歩きで目的地の方へと向かった。


 空に翳りが見えてきた。傘を失った彼には空の様子がはっきりと見えた。地下で育った彼には雲の高さは非現実的なものであった。彼は子供の頃に、地下都市でもっとも開けているといわれている空間に旅行に行ったこともあったが、それとは比べ物にならないほど高い青の天井に、雲が張り付いていた。そして少しずつ動き、太陽と重なり、まるでダイヤルを回すように地上の明るさを調節した。彼は健康上の注意からあまり空を見上げないようにしながらも、それでも雲の動きに心躍らせないわけにはいかなかった。
 目的地に近づくにつれて、空の翳りはその濃さを増した。しばらく行くと、彼は首筋に冷たいものを感じた。雨が降ってきた。
 「雨なんて一滴たりとも浴びちゃいけない。地上の雨なんて何が混じっているか解りゃしないんだから」
 彼は父親の言葉を思い出した。今しがた首筋や頭に落ちた雨が、有毒な化学薬品として体の中まで染み込んでくるように感じられた。雨が当たったところが痒く感じるような気もした。彼は上着のフードをすっぽりと被った。そして目的地に向かう足を早めた。
 目的地が近づいてくると、道の片側は背の高い木々が視界を遮るようになってきた。彼はその向こうに海があることを書物で知っていた。当初の予定では、彼は語学学校に到着する前にその林を抜けて一人で海を見るつもりだった。しかし、この状態ではそれはかなわなかった。
 しばらくすると道の脇に広場があり、そこで子供たちがボールを蹴って遊んでいた。器用に手では傘を差したまま、ボールをあまり浮かせないようにしてゲームをしている。彼らは今までに見た中でも最も貧相な傘を差していた。流木のような木の枝につぎはぎだらけの布を取り付けただけのものであった。それを持って走るものだから、布の部分が今にも取れそうだった。
 子供たちは旅人の姿を認めると一時ゲームを中止し、何やら現地の言葉で大声で話し合っていたが、その中でも地下の言葉が少しわかるとみえる子供が彼の近くにやってきて、彼に話しかけた。
 「傘は?」
 「無くした」彼は屈辱的に感じながらも、ゆっくりと発音した。
 それを聞いた子供は仲間達に大声で報告し、仲間達は皆笑った。
 「変なの。大人なのに傘を差していないなんて」彼には子供達が現地のことばで何を話しているのかが手に取るようにわかる気がした。
 雨は強まり、海沿いの林にぶつかって音を立てていた。彼の防水加工のはずの上着にも雨は染み込み始めていた。彼は子供たちの相手をしている場合ではないと思ったが、話しかけてくれた彼らを邪険に扱うわけにもいかなかった。今後の彼の教え子になる可能性もある。
 一人の子供が、傘を少し上に差し上げ、彼に中に入るように促した。彼は身をかがめ、そのぼろ布の下に収まった。雨は全く凌げなかったが、それでもそれは、彼にとって地上で受け取った初めての優しさだったのだ。
 「きて!」子供たちがいっせいに林の方向に走り出した。彼を傘に入れてくれた子は走り出すわけにはいかなかったので、彼と横に並んでその方角にゆっくりと歩き出した。
 木の根元を踏み分けて、湿った砂浜へと出た。彼はそこで、生まれて初めて海というものを見た。雨が降っているので、水平線は灰色に、空とまぎれてはっきりと見えなかった。巨大な水の塊がうねり、浜に打ち寄せることを繰り返した。彼はこんなにも大量の水を一度に見たことはなかったが、それよりも彼の心をとらえたのは、その横方向への広がりだった。バス停の周辺や、地上の村とは比べ物にならないほど、その広がりはどこまでも続いていた。水平線がはっきり見えないことも相まって、彼は自分が立っている場所が遠くで空と溶け合っているような錯覚を覚えた。
 子供たちは傘を差したまま水辺に走って行き、足の運びと共に跳ね上がる水を見てはしゃいだ。彼は傘に入れてくれた子供が仲間に入れないのを気の毒に思い、身振りで彼らの元に加わってくるように示した。その子はためらいながらも水辺の方に走り出した。途中で何かを思い出したように立ち止まって、振り返り、彼にたどたどしい地下のことばでこう聞いた。ほとんど叫び声に近かった。
 「あなたは地下から来たの?」
 彼は「そうだ」と叫んだ。地上に降る雨が何らかの形で糸を伝うように地下に降りてゆき、その水は生活水として都市を循環する。地下に生活する人間にとってはそれは当然のことだし、よく知っていることだ。しかし海を目の前にしてみると、彼にはイメージがまるで掴めなかった。こんなにも横方向に広がった水が、どのように縦に引き伸ばされ、地下に降りていくと言うのだろう。ここで見る水は自分の意思でうねっているかのようだ。意志を持って広がり続けていくかのようだ。この水はあくまでも横に広がっていくのだ、いつまでも。
 彼は林の出口で木の幹に寄り添うようにして立ち、海と、その手前で走り回る子供たちを眺めた。時折葉を伝って大きな水の塊が彼の元に落ちてきた。彼は木の根元に腰を下ろした。お尻に”絶対に浴びてはいけない水”が染み込んでくる冷たさが感じられた。それから彼は、空と溶け合った地平線をもう一度見た。