ヘヴン・スポンサード・バイ・バーガーキング

 ヘヴンは白い。
 ギリシアの海辺の小さな町の、海沿いにならぶ建築物のその白は、空が青いということに裏付けられた白さである。ヘヴンの白はそれとは違う。天も、地も、白い。ヘヴンにおいて、いかにして天と地の存在を知る?それは当然地上での経験からにほかならない。彼が歩くのが地で、神が歩くのが天である。そして砂浜に寄せる海は紫だ。
 一切の色彩が失われるというのは、必ずしもグレイスケールの世界を意味しない。
 紫の海を見ながら、彼はある記憶を辿っていた。空と、海がなぜ青く見えるのかについての多少の知識である。しかしそれは地上に置いてきてしまった。どちらも似たような理由であった気がする。
 しばらく海を見ていた彼に、声をかけるものがいた。
 「おまえの出発は何時だ」
 彼は腕時計を見た。文字盤はひび割れ、時計は七時四十五分を指して動かない。「そんなこと、聞かされていない」
 声をかけてきた大柄な男は笑った。
 「まだ地上が恋しいか」
 そういうわけではなかったので、彼は肩をすくめた。腕時計を見るのは、ただ地上にいた頃の癖であった。彼は高級腕時計の価値などなくなったに等しい現代(ヘヴンにおいてもそのように呼ぶのが適切であれば)でも、なかなかに良い時計をつけていた。かつて彼の同僚は、時計とは小型デバイスに付属している概念であるか、もしくは実体として腕に巻くものに情報機能が集約されているものか、そのどちらかであるとして、ただ円盤の上を数本の針が動くに過ぎない彼の前時代的な代物を嘲ったことがあった。
 「次の便はおよそ一時間後に出るときいた」男が言った。「でも俺たちにどうやって時間がわかるというんだ。海岸を監視している係員に聞いてもなんにも教えてくれやしない。ただ向かうべき場所だけははっきりとわかるんだ」
 彼にもなぜか同じ確信があった。二人は、我々の向かうべき場所は海沿いにずっと歩いた先にある、という見解において、無言の上で一致していた。
 「おまえ、事故か」突然男がぎょっとしたように言った。
 彼は男の視線に誘導されて自分の脚を見た。左の膝から先があらぬ方向へと曲がっていて、大腿骨が筋肉とジーンズを突き破ってのぞいていた。不思議とこれまで気がつかなかった。彼は当然ながら自分の骨を観察したことなどなかったので、興味を惹かれた。本物の人間の骨というのは漫画で見るコミカルなものとは大きく印象が異なっており、その造形はこの期に及んで美しく思われた。
 「めしどきだぞ。どうにかして隠しておけよ」男のほうはそうは感じなかったらしい。
 その大柄な男は目立った外傷もなく健康そのものといった様子だった。病院の名前が入った灰色のパジャマは多少丈が足りないようで、体格の割に薄い手首と、同じように薄く、毛深い脛が見えていた。彼は男の胸ポケットが四角く膨らんでいるのを発見した。おおかた医者の目を盗んで煙草を嗜んでいたのだろう。
 「僕なんかよりもっと酷い状態になっている連中が、ここにはたくさんいるだろう」彼はちょっとおかしくなって言った。
 「そんなやつら俺たちの目に触れることはないんだ」男は胸ポケットから煙草を一本取り出し、ライターを点けようと試みた。しかしいくら指先で擦っても火花すら起きる様子がない。
 「バチが当たったんだ」男が嘆いた。「度が過ぎた喫煙でこうなっちまったのに、ヘヴンでそれをとりあげられるとは」
 男は煙草を投げ捨て、ライターを胸ポケットに戻しながら言った。「つまりな、もう原型をとどめてないような連中は、一般客の目に触れないようにドラム缶かなんかに詰め込まれて出発させられるのよ。我々にとってはこの上なくありがたい配慮だな。ここでだって間違いなく腹は減るんだ」
 係員が黒いドラム缶のようなものを台車のようなものに乗せて運んでいくのがそこかしこで見られた。係員どもは乾いた砂の上で車輪を転がすのに大変苦労していた。車輪の後ろから二本の跡が真っ白な地面に伸びていった。
 彼らは係員どもの向かうと同じ方向へ、海沿いを真っ直ぐ歩いていった。途中で広い道に抜けると、同じ方向を目指して歩く、彼らと同じ境遇の者が増えた。この先に人類全体の目的地がある。それがどういったものなのか、はっきりと彼は知らない。


 「見えたぞ」男が嬉しそうに言った。
 大道路沿いにポツリと、見知った建物があった——バーガーキング。通常赤、黄、青が使われる看板は紫一色で着色されている。新商品がプリントされたポスターがガラスケースの中に収められているのが見える。商品のポスターでさえも食欲を刺激しない紫一色で印刷されていた。そしてなぜか、店の裏手にはドライブスルー専用レーンがあった。彼は混乱した。誰がヘヴンでドライブスルーを頼む?どこにヘヴンからハンバーガーを持ち帰る人間がいるのか。完璧な居心地のよい空間である自宅に?そして何よりも、ここが——生前から思い描くものも少なくない、人類の最終目的地点なのか。
 「我々の最終目的地というわけではない」男が彼の考えを見透かしたように言った。男の顔には食事にありつける喜びがみなぎっていた。「長旅になるから、ここでメシを食っておく必要があるんだ。数年前までヘヴンのオフィシャル・ミールはマクドナルド提供だったが、ここ最近の経営難で天上からは撤退したとのことだ。嬉しい話だよ。マトモな野菜が食える」
 彼は黙っていた。男がなぜこれほどまでにヘヴンの事情に詳しいのか不思議に思った。そもそも、ここに送られてくる者たちは、すべて同じ条件なのではなかったか?彼は、ここはより永久的な、整理された心を持った者にとっての長旅への待機地点のようなところだという説明を受けていた。ある者は滞在期間が長く、ある者はそれより短い、といったようなことはありえるのだろうか?
 店内を目指す者が店の前に列をなした。その前に立つ係員と言葉を交わしたのち入店してゆく。ヘヴンの係員は皆全身黒のスーツを身につけている。シャツとネクタイまで黒い。そして大きなサングラスをかけており、目から表情を窺い知ることができない。それは旅立つ者と混同されないための配慮だという。時間制労働者の彼らにとっては、ヘヴンは永住地でも旅立ちの準備地点でもなく、ただ地上を過ごす金と引き換えに時間を売り渡す場所にすぎない。
 彼らにとって、人生観とはいかなるものであろうか。
 「ワッパーってどういう意味か知ってるか?」
 店の入り口にたどり着いたとき、出し抜けに男が言った。彼は考え事をしていたので、何を聞かれたのか把握するまでに時間を要した。
 「ワッパー?」
 「すみませんが」彼が次の言葉をみつける前に、店の入り口に立っていた黒づくめの係員が男に声をかけた。「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 彼と男はそれぞれ、かつて名乗っていた名前を口にした。
 「お客さまは」係員が大柄な男の方に言った。「申し訳ございませんが、出発便が変更になりまして、間も無くのご出発となります。出港の列の方に急ぎ向かっていただいてもよろしいでしょうか」
 「なんだって!」男がどなった。「何も食ってない、煙草も吸えねえんだぞ!こんな状態で船の長旅なぞできるものか。死んでしまう!」
 「お言葉ですが、お客さまはすでに……」
 その言い方には、本心から憐れみ申し上げます、という調子が感じ取られ、男はそれで気分を害したのがありありとわかった。彼は愉快に思いながらそれを見ていた。
 「わかっているよ。言葉の遣いかたに気を張る余裕なんてないんだ」
 「あちらに案内のものがおりますので、至急そちらへ向かってください」
 男は係員に連れられて去ってしまった。彼はワッパーがどういう意味なのかついに知る機会を失った。
 「店内へどうぞ」係員が彼に言った。


 バーガーキングの店内もまた、ヘヴンの空間と海の色の二色刷りであった。店内の客席は大方埋まっているようで、かろうじてテラス席が数席開放されていた。彼は、ヘヴンの客でさえ、紫一色の海を眺めながら食事を摂ることに詩的な要素を感じえないのだと思ったが、仕方がないのでワッパーのセットを手にテラス席へと向かった。それは通常の係員の格好に追加して黒いキャップと黒いマスクを身につけた店員から、注文後異常な速さで出てきたので、彼は男の別れ際の台詞を勘繰り少々不安になった。
 「ここ、座ってもいい?」彼が詩情にとぼしい海を見ながらワッパー(色彩は失われていたが、あの風味は全く損なわれていなかった)を食していると、若い女性に声をかけられた。
 「どっこも空いてないの」
 彼女はまるでヘヴンの調和を乱す者そのものであったし、かつては地上にあった現実からすらも飛躍していたのであろう、ということがまざまざと感じ取られた。”その瞬間”の格好は、目の詰まった黒いセーターにブルージーンズというものであったようだが、その具合からはどこか、ある日には溢れんばかりの色彩を指揮者のようにうまくまとめ上げて一つの装いにすることに慣れているのだ、といった面影があった。それは赤と黄色でもよかったし、ピンクと緑でもよかった。彼女の快活さがそれらをどうとでも操ることができるのだ。その状態でヘヴンに登ってきたのだとしたら、きっとこの地の陰鬱な二色刷りでさえ彼女を抑え込むことはできなかっただろう。
 「何を飲んでいるの」彼がカップの底の方に溜まった飲料を間抜けな音を立てながら吸い込むのに呆れたような目線を送りながら、彼女が言った。
 「コーラ」
 「バカじゃないの」彼女はおかしそうに言った。「大審判の前でげっぷでもするつもり?」
 「これから何が待っているのか僕にはわからないんだ」
 「私もそうだけど、でも審判の瞬間が待っていることくらい。地上ですら死ぬほど叩き込まれたでしょう」
 「じゃあ君は何を飲んでいるんだ」あきらかにコールドドリンクで満たされているであろうカップを見ながら、彼は聞いた。湿った紙ストローに血が少しついているのが見えた。
 「スプライト」
 彼らは笑った。横の席に座っていた老人が訝しむような目線を彼らによこした。この特殊な事情を抱えたバーガーキングにおいてはほとんど会話をする人間がいないので、彼らのささやかな騒音は電熱線のように店中に伝播した。もっともそれをありがたいと思う人間も皆無だった。
 「お客さま、少々お静かにお願いいたします」店内のダストボックスを掃除していた係員がやってきて言った。「他のお客様もいらっしゃいますので」
 「なんのつもり?」彼女は気分を害したような様子で言った。
 「お静かにお願いします」係員は気のない一本調子で繰り返した。
 そのようすが、彼女の気にひどく障ったらしい。彼女は少々声を荒げて言った。
 「他のみんなが、クソさびれた孤独な道を一人で、黙々と、太陽のもとに歩んでいく旅に出るとしても、わたしはずーっとこうやって喋り続けるつもりだからね」
 彼女の唾と共に少しだけ血が飛び散るのが見えた。
 「お言葉に気をつけていただかないと、今後の審判に影響してきますよ」
 彼は、得体の知れぬ”審判”というものに、自分までその影響を被ってはかなわないと、彼女に抵抗を止めるよう必死の目線を送ったが、彼女はお構いなしに強い語気で話し続けた。「こんなに毎日まいにちヘヴンに昇ってくる人たちを見送っておきながら、あなたの人生観にとくべつ変化はないわけ?自分の行先をいやというほど見知っておきながら、なんて鈍い感受性なの、あなたたちは。そもそもあなたたちにはワッパーって単語ひとつでさえ!どういう意味か、それすら知らないんでしょう。ワッパーっつーのはねえ……」
 彼女はどこからともなく三人に増えた係員に腕を掴まれ、黒い布で口を塞がれて店の裏に引き摺られていった。それで彼は、ワッパーがどういう意味なのか知る機会を再び失った。
 彼は食事を終えると、自分のと、彼女が半分以上を残していったトレイとを両手に持ち、ダストボックスの方に向かった。そこにはトレイと紙屑を回収する小さな箱しかなかった。
 「あの、残飯はどうすれば」彼は店員に尋ねた。
 店員は驚いた様子で、彼に言った。
 「全部食べなかった人なんてこの長いヘヴンの歴史のなかでもあなたが初めてです」


 彼の出発の時間が近づいてきた。店の外にいた係員からそのことを聞かされ、出発へと続く人々の長い列に加わるように案内された。砂浜には途中で休憩するための白い椅子が無造作に並べられていた。列から外れ、そこで休憩している老人に、係員が列に戻るよう促している様子が見えた。ところどころに、白いビーチ・パラソルさえもあった。列が向かう先には、地平線ぎりぎりのところに、まるで野外音楽フェスの入場ゲートのようなアーチ状の構造物が見えた。構造物には、堂々としたゴシックの書体で次のように書いてあった。
 ”ヘヴン”
 その下にはその半分ほどの大きさの同じ書体で以下のように記されている:
 ”サポーテッド・バイ・バーガーキング”
 彼はそのアーチから祝福めいたものを敏感に感じとった。この先に何が待っているのかはっきりとはわからないが、そこで、すべてから解放されるような気がした。地上に思い残したいざこざや、人間関係や、もっとこうありたかったという色々の全てを、あのアーチをくぐることで全て忘れ去ってしまうのではないかという気さえした。それはすこしだけ寂しいことであった。もしあの大柄な男が——そんなことが可能かどうかすらわからなかったが——何週間も出発の日を延ばし、あれをくぐることを拒否し、あくまでも仮定的なヘヴンの存在としてここに少しでも長く居残ることを望んでいたとするならば、彼にもその気持ちはわかるような気がした。
 彼は自分と同様にあのアーチに向かっていく者の顔に、自分と同じような感傷の気配がないかを遠慮がちに確認しようとした。ある者は晴れ晴れとした表情でアーチに行進していった。そういった者たちには比較的高齢な者が多かった。それは整理された心を持った者の輝かしい大いなる冒険の第一歩にほかならなかった。歳を重ねた者の説得力が、まるで生まれた瞬間から自らのゴールをあのアーチに設定していたかのような自信を感じさせた。それを見て彼は恐怖した。それはヘヴンに辿り着いてから彼がはじめて覚えた畏れだった。
 アーチに近づくと、その根元には白い長机が並べてあり、係員が紙袋に入った何かを配っているのが見えた。
 「どれになさいますか」一人の係員が男に話しかけた。
 彼が戸惑っていると、係員はぶっきらぼうに懐から紙切れを取り出し、彼に見せた。それはバーガーキングのメニュー表であった。
 「さっき、食べました」
 係員は面倒臭そうな顔をして説明した。「この先の旅は長いのです。あなたはこの中から一つを選んで携帯していってください」
 彼はもう一度渡された紙に目を落とした。なぜ、周りの者は皆、なんの障害も感じずにヘヴンで課された諸々の手続きを踏んでいくのだろう。まるで仲間の分泌する化学物質を頼りに食物のありかまで一心不乱に進む蟻の行列のようであった。皆迷うことなく目標に辿り着き、必要なものを必要なだけむしり、そして次の列に混ざっていった。このままでは、彼は女王蟻に爪弾きにされるかもしれない。
 メニュー表は店舗内で見たものから一部省略されていたが、それでも彼には四つの選択肢があった。ワッパーのセット、ダブルワッパーのセット、スパイシーワッパーのセット、そしてクワトロチーズワッパーのセットだった。
 「どれになさいますか」係員が繰り返した。
 彼は考えた。この先の旅程は長そうだし、いつ次の食事にありつけるかわからない。それであれば一番豪勢に感じられるクワトロチーズワッパーを選ぶのがよいのではないか。いや、ここからの道のりはもしかしたら凍てつくように寒いのかも知れない。とすればスパイシーワッパーを選ぶのが得策か?あるいは、と彼は考えた。ここでの選択が係員に記録され、大審判での判定に影響するという可能性もある。その結果は主に地上での行動に拠ってくるのではあろうが、ここで最後のポイントを稼ぐチャンスではないのだろうか?慎ましくノーマル・ワッパーを選択したものがすこしばかり優遇され、豪勢なメニューを頼んだものは査定が減点されるのではなかろうか?
 「どれになさいますか」少しばかり苛々してきた様子の係員が尋ねた。「いい加減にしていただかないと、今後の審判に影響してきますよ」
 聞き覚えのある台詞だった。それで彼は、ヘヴンで出会った二人の人間のことを思い出した。おそらくは呼吸器系のトラブルを持った、ぶっきらぼうで大柄な男と、血を吐いた、洗練された陽気な女。そして彼らが同様に話していたこと。
 「ワッパーってどういう意味か知ってる?」
 彼は今にも無線で仲間を呼ばんばかりの係員の前で硬直した。その間にも人々は、各々の選択をにこやかに受け取っては、輝かしい大いなる冒険に踏み出す……。これを受け取ってさえしまえば、アーチまではあと十歩もないだろう。それをくぐれば、彼は全てから解放される。それなのに、何がこの選択をここまで難しくさせる?

 「もうちょっとだけ待って貰えませんか」
 彼のカラー・パレットの並びは、永遠の祝祭にはあまりにも遠い。