死と、永遠の生と、カート・コバーンについて

「何かを残したい」という気持ちは、ある意味で不死というものへのあこがれと背中合わせなのだろうか。

初めて、死、ということを意識したのは小学生くらいのときだったと記憶している。祖父母の死というものに触れながら、自分が死ぬということについても少し考えてみた。死というのは永遠の眠りと表現されるが、眠りにおいて、自分が「なにもない」状態だったというのを実感するのは起きた時だ。ほんとうに永遠に眠ってしまえばそれを感じることもできない。すべての終わり。死ぬというのは、どういうことなんだろうか?

経験をもって、死を知ることはできない。それにしても、僕はすこしずつ成長するにしたがって、それを「すべての終わり」とは考えなくなってきた。たとえば、人は二度死ぬ、という有名な言葉がある。検索してもいまいち誰の言葉であったか定かではなかったが、すなわち一度目は肉体的な死、二度目は人々から忘れ去られたとき、ということだ。肉体的に死んだとしても、誰かの記憶に残っている限りそれはすべての終わりではない。

この考えに基づけば、何かを成し遂げることで、ほぼ永遠に完全な死を迎えなくなった人々がいる。歴史上のいわゆる偉人もそうだし、画家や彫刻家もそうだろう。文章を残した人もそうだ。しかし、僕には音楽を残した人々が真っ先に浮かんでくる。これは自分がそれらに強く影響されてきたからなのだと思う。

大学に入って音楽に触れる機会が増えた。主にロックやポップス、ジャズだが、古い音楽を聞くようになった。こんなこともある。現在でも活躍しているあるバンドの音を耳にし、気に入って検索すると、もう初代のボーカルが亡くなっていたのだ。知ることを出会いと表現するならば、彼と僕との出会いは彼の死後だ。それでも、そのバンドをことあるごとに聴いてきた。地球上に存在する人間のほとんどに会うことはない、と考えれば、僕にとって彼はこの世の大概の人よりも「生きている」のだ。

バディ・ホリーもキース・ムーンもマイケル・ジャクソンも生きている。たとえ肉体的に生きていた期間が短かったとしても、たくさんの人に影響を与えることで。そしてこれは汚れた欲かもしれないが、やはり僕も死んでなお誰かに影響を与える人になりたい、と思っている。

死というのを考えるにはまだ早すぎるというのなら――それはまさに明日降りかかるものなのかもしれないにもかかわらず、だ――別れというものを考えてみる。もとはフランスの詩からとられた言葉だが、ロング・グッドバイの「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」という決め台詞が、僕は好きだ。僕たちは留学、卒業と多くの別れを経験する。別れてしまえばもう忘れてしまう人もたくさんいるだろう。しかしたとえもう二度と会わない人だとしても、文章の力で少しでも影響を与えることができたなら、これほど嬉しいことはない。

(音楽に関しても――残念ながらポンコツだが、それでも自分で何かを生み出すために今はインプットを増やしている、というところだろうか)

オアシスに『リヴ・フォーエヴァー』という曲がある。この曲は自殺したニルヴァーナのカート・コバーンに対するノエル・ギャラガーの抗議というか、そういう意味が込められているらしい。しかし言ってみればカート・コバーンも音源の中で永遠に生き続けるんですよね。そう考えると面白い。