行列のできるパステル・デ・ナタの店と、テスト範囲の文学史と、世界の半分くらいある南極大陸について

そういえば、観光地を回ろう、と思ったことがあまりない。

国内のいくつかの有名な観光地には行った。アルファマ、ベレンの塔、発見のモニュメントなど。しかし、アルファマに関しては自分からふらりと立ち寄ったものの、ほかの場所に関しては行きたいという友達についていっただけだ。

しかも、そこが有名な観光地であったことは後で知ることが多いときている。

小さい焼菓子ひとつを買うのにもものすごく並んで、ああ、これは多分有名な店なのだろうなと思って調べてみると案の定だった。なんかすごそうな建造物だなと、海を睨みつける彫像の顔を眺めていたらそれが発見のモニュメントだった。その中に入れることすら知らなかった。

そんな旅行の仕方に、思い出すことがある。

小さいころ、週末はよく遅くまで映画番組を見ていた。そこでたまたまやっていた「ダークナイト」が好きになって、後になって調べてみるとすごく評価の高い作品で、ジョーカーの人がアカデミー賞をとっていたり。そういうところが、さっきの話と少し似ている。

しかし、最近では順序が逆になってしまった。もう聞いたことがあったり、誰かが推薦していたり、受賞していたりする作品を探して観ることのほうが多い。先にガイドブックを見る、そんな出会い方。

たとえば、音楽について。ビートルズは好きだけれど、周りの影響がなければここまで聴いていたかどうか。「そうなのか、そんなにいいのか」というイメージから入ってしまうのだ。またある時は「これはストロークスの直後くらいにきたバンドなのか」と、系譜をたどるように音楽をみてしまう。本当につまらないことだと思う。でも仕方がないことだとも思う。

小説は?高校で文学史を習った。坪内逍遥、谷崎潤一郎、安部公房、など作家と著書名、特徴を覚えさせられる。誰々は何派であると、読んでいる作品もいない作品(ほとんどだ)も分類されてしまえば、もうそういう考えが頭のどこかにこびりついて離れなくなってしまうよ。

なんでもそうだ。何かから印象を受けるということ、何かを好きになるということ、一定のところを超えてしまえば、それらは全てブランドなんだと思う。古いものなんかどんどん人の目にも触れなくなって、みんながいいと言っているものしか残らなくなっていく。歴史という流れの中で削り取られなかったものだけが、または、どこかの誰かがゴリ押しすると決めたものだけが、僕たちの目に触れるのだろう。下流には丸い石ばかりで、もう名前もレッテルも全部ついている。僕は何かのきっかけでたまたまそれを見つけ、借り物の意見で褒めたり貶したりするだけだ。

小さい頃世界地図を見るのが好きだった。メルカトル図法の地図の、高緯度の異常に面積が増えたところが特に僕を惹きつけた。北アメリカの北方にある変な形の島々とか、「ニューファンドランド」「ラブラドル」という奇妙な名前とか。はたまた南極大陸という、ほかの大陸を全部足したくらいありそうな場所とか(南極はあたかも、あまりにも大きすぎてすべて描ききれず、頭だけ出しているように見える)。そこに行ってみたいと思った。何があるのかと思った。

今となっては、南極が世界の半分もないことは承知だし、グリーンランドはあんなに大きくないということも、そこにどういうものがあるのか(というか、ないのか)ということも、ある程度まで容易に知れてしまうようになった。そもそも軽々と行ける場所ではないということも。

すべてはどうしようもないことだ。それでも、僕はときに、ささやかな抵抗を試みたくなることがある。できるだけ頭を空っぽにしてどこかへ行くよろこびを、もう少しだけ取っておくことを許してもらおう。