スマートフォンはおろか、インターネットも普及していなかった頃の待ち合わせとはどういうものだったのだろうか。
少し前にこれについて書かれていたものを読んだ。ソースがどこだったか思い出せないので概要だけ書いてしまう。昔の待ち合わせでは、”松山市駅に10時”などと大雑把に指定するだけでは不十分であった。”この駅の西口出て右の、北側から三番目の柱の前”などと具体的に指定する必要があった。そしていったん待ち合わせの約束をしてしまえば、相手になにかが起きてそこへ行けなくなってもわかりようがない。相手が来るのか来ないのかもわからずに一人で泣いてしまっている人も、昔の駅ではよく見かけられた光景だそうだ。
海外に住んでいると、例えば待ち合わせ相手がモバイルデータを契約していないことも多く、これと似た状況になることがある。先日もそんなことがあって、それでふと昔の待ち合わせについて考えてみたのだ。やきもきして一人で待ちながら。
携帯電話のメールが広まって以降(というか僕はそれしか知らないのだが)、待ち合わせはとても簡単になった。ほぼ確実に相手と出会えるし、何か起きて待ち合わせ場所に行けなくなれば容易に知らせることができる。それは絶対に良いことなのだろうが――などと書くと、またものすごく陳腐なにおいがし、自分が年寄りのようにも思えてくるが――”無事に会えた”ということの貴重さが薄れるのは、待ち合わせに対して心がすごくすごく狭くなるのは、紛れもない事実なのだろう。
待ち合わせに限らず、人との出会い全般がカタいものになってきているのだろうと思う。もしかしたら人だけでない、場所や、音楽や小説や、そのほかたくさんの物事との出会いについても。レイティング、再生履歴に基づいたサジェスト機能、レビューの発達、それは裏を返せば、すべての出会いに対して人々がシビアになってきていることの表れなのかもしれない。
日本語の練習をするといって始めたこのブログに、もしテーマのようなものがあるならば、それは”出会いにオープンであれ”ということになるだろうか。
最初の記事で、人生は波だなどと大層なことを書いて、しかしそれから僕は、物理的にも精神的にもたくさんのところに流れていったと思う。もちろん多くの人から見れば大したことのない冒険だろうが、個人的には大きな経験だ。
レビューをなぞりつづけるようなことは絶対にしたくないのだ。まあ仮になぞり続けたとしても結局どこかでは大きな波にさらわれるんだろう。それでも、できるだけどんな出会いにも開けた心でいたい。
こんな感じで、留学前半が終わります。なんだかんだ言って、この夏久しぶりの人との待ち合わせには絶対に失敗したくないけどね。