シンガー・ソングライター

 小さな軽自動車が唸りながら加速していく。正面にはどこまでも続いてる真っ直ぐな道路が、左右には田んぼと一定の感覚で配置された街灯がある。4車線ある大きな道路で昼間ならもっと交通量があるのだろうが今は僕たちの車だけだ。
「僕たちだけだね」
 そう言った途端に向かいからブレイドランナーみたいなランプをたくさんつけたトラックが走ってきてすれ違う。
「トラック野郎もいたわね」
「いつもこうなんだ。僕がちょっとロマンチックなことを言うだけで上げ足を取られてしまう。これは君が悪いと言っているわけではないんだ。上げ足を取られても仕方ないような状況に陥ってしまうのさ」
 彼女はもう既に僕の話は聞いていない。窓からは湿気ている風が入ってくる。明日の昼間には台風が直撃するという予報になっていたはずだ。夜だからわかりにくいが空は分厚い雲に覆われている。
 隣に座っている彼女が車の運転をしている。僕も免許を持っていないわけではないが彼女が車の運転をしたいというから任せている。こっちは運転が好きなたちでもないので助かる。
 信号があって停まる。高速道路みたいなスピードで走っていたがここは大きな国道だ。時々信号がある。風も止まる。
 僕たちは新婚旅行に来ている。ハワイとかグアムなんかを職場の人には勧められたがどうもピーカンとか南国とかなにより観光客ナイズされたところに行くのはどうも僕の性に合わなかった。だから僕は北関東の安い民宿にいくことにした。お金もないし丁度よかった。台風前の生憎の曇り空だってお似合いといえばお似合いなのだ。
 昼前には民宿についたが観光地でもないのでやることもなく、あてのないドライブに出てきた。特にトラブルあったというわけではないがすっかり真夜中のドライブになってしまっている。
 信号が青に変わる。すぐに軽自動車が出しうるトップスピードになる。このペースならあと30分もあれば民宿に帰り着く。
「結婚式もしないし、新婚旅行だってこんなところだけど。いいの?」
 彼女は心底あきれたように笑う。
「本当に心配してるの?思ってもないこと言うとクセになるわよ」
「僕のエクスキューズのためさ。皆、なんちゃってチャペルで結婚式をして、なんちゃって外国に新婚旅行に行くんだ。君もそういう通過儀礼的なことをしとかなくていいのかなと思って」
「なんちゃってって言葉ほど相手を馬鹿にしてる言葉もないわよ。そこまで馬鹿にしてるものにあなたが付いてくるわけないでしょ。私だってそこらへんも全部含めて、今、車を運転してるんだから」
 僕は馬鹿な質問をしたもんだと思って舌打ちをする。似た者同士なことに変わりはなかった。僕に重たい曇り空が似合うみたいに彼女にだって分厚い曇で覆われた空が似合うのだ。彼女の運転は確かにすごいスピードが出ているが安心して乗っていられた。彼女の運転がスムースなのもあるだろうか、飛行機に乗っていてもその速度が怖くないのと同じ理屈だと思う。周りには田んぼしかないので速度を相対的に感じさせてくれるものがない。きっと宇宙船に乗っていてもこんな感じなのだろうか。それは確かめようがない。宇宙船には死ぬまで一度も乗ることがない人生だ。宇宙に一度も行くことなく死ぬのだ。宇宙に行かずに死んでしまうようにオーロラを見ることなく死ぬだろうし、一度もくぐることのない玄関もあるだろうし、一度も開くことのない本があるのだ。そう思うと片っ端から家々のインターホンを鳴らして回りたくなるし、仕事を辞めて東京の図書館に籠って次の日はサンフランシスコの図書館でその次の日は釜山の図書館でそのまた次の日はブラザビルの図書館に籠りたくなる。
 久しぶりの信号に捕まる。
「誰も通ってないのに信号守る必要ってあるのかしら」
「みんながルール守っているのが一番何も考えなくていいからね。誰かがこの信号で強盗を始めたら皆、この信号を守らなくなる。そのまた先の信号でも強盗が始まって1つずつ安全に停まれる信号はなくなる。もしかしたら強盗は休みなのかもしれないけど不安になった皆は誰も信号を守らなくなる」
 誰もいなかった道路に後ろから車が近づいて僕らの車の隣で止まる。オープンカーに白髪の60代くらいの御爺さんが乗っている。大音量で音楽を流しているので嫌でも見てしまう。大音量の音楽はジョン・レノンだった。僕がそれに気が付くのと彼女がそれに気が付いたのは同時だったみたいだ。彼女はドリンクホルダーからルイボスティーがまだたっぷり入っているはずの缶を持ちあげた。
「ジジイがジョン・レノンなんざ聞くな」
 そう言って彼女は缶を隣の車に投げ入れた。よくわからないがたぶん車の中はお茶まみれのはずだ。御爺さんは驚いたような顔でこちらをみると赤信号を無視して走りさってしまった。車と一緒にジョン・レノンも遠ざかっていった。お茶を投げ入れたのはやりすぎな気もしたが概ね彼女と同じ気持ちだったので咎めたりはしなかった。
 信号が青になって僕らの乗った車は進み始める。