ポストシーズン、花火

ジャゲヤ#16 – ポストシーズン
 小説を書いている、と胸を張って言えたためしなど一度もない。もちろん笑われることだって多いし、ある程度分別のある人でさえ、すごいですね、という言葉の前に軽蔑の表情がふわりと生じるのを、僕は見逃さない。無理のないことだとは思う。僕だって、三十代も半ばに差し掛かったようなおじさんが新人としてアルバイト先にやってきて、「小説を書いているんです」なんて言われようものなら——おそらく後々には仲良くなれるような人だろう、その人は。でも、どんなに取り繕っても、最初の一瞬、注意深くない人間ならば見逃してしまうであろうその一瞬、僕の表情は歪むだろう、”マジで言ってんの?”。僕は最初から真っ白な手を差し出せるだろうか。
 いや、そんな人間が一人だけいたかもしれない。
 夏休みも後半に差し掛かった頃で、店には宿題の追い込みに励む学生が明らかに増えてきていた。その喫茶店は店主の趣味で、チェーン店でもないのに夜遅くまで開店していた。夜はバー営業をするのかというと全くそんなことはなく、それ故にその店は中高生たちの格好の溜まり場になっていたのだ。僕は実家で生活しており、朝小説を書き、昼はダラダラと過ごして、夕方から閉店にかけて働いていた。働きはじめてから半年ほど経っていただろうか、店主はクローズ業務のほとんど全てを僕に任せるようになった。その頃店主は家庭内に問題を抱えていたらしく、気ままに夜遅くまで店番をすることができなくなっていたらしい。シフトの融通が誰よりも効く僕は重宝された。いつも助かるよ、と、僕はそれをなんとなく侮蔑のように感じながらも店じまいの責任を背負っていた。しかし、周囲に学生の溜り場が他に存在しない片田舎で、遅番とはいえその業務を一人でやりくりすることは難しくなってきていた。店主に相談すると、遅番をもう一人雇ってくれることとなった。
 彼女は、少し離れた町の専門学校に通う学生だった。髪を金色に染めていて、なかなかに派手な服をいつも着て、しかし外見とは裏腹に無口で、勤務中でもひっきりなしに煙草を吸いに店の外へ出た。そして驚くべき量のシフトを入れた。他人のことを詮索するのは気がひけるが、この人にはプライベートというものはないのかと僕は訝ってしまった。
 それでも、毎日同じ人間と顔を合わせるのは、仕事を教える僕にとってはとてもありがたいことだった。週一日しか入れない人間を五人も雇われることに比べれば。僕は彼女に注文の取り方を教え、コーヒーの淹れ方を教え、汚れていると特に店主が怒る場所を念入りに掃除するように教えた。
 彼女は次第に閉店時間まで勤務するようになった。しかし、机に突っ伏して眠っている高校生を追い出し、店の入り口に鍵をかけ、裏口から帰路につくまでの間も、ほとんど言葉を交わすことはなかった。暗くなった静かな店内には椅子を引く音や、ガラスが触れ合う音だけが時折発生した。近くをすれ違う時に、事務的な言葉をひとこと、ふたこと交わした。
 それでも、僕はずっと一人で行ってきた閉店作業を誰かと一緒にできることが嬉しかった。僕は次第に彼女と二人の静かな作業を心地よく感じるようになっていた。八月の最後の週末に台風がやってきて、店が一時休業になった。付近で行われる有名な花火大会が順延になった。週末の夜はどちらも必ずシフトが入っていたので、その日は家にいるのが不思議な感じがした。店内の有線放送を切り終わった後の、あの薄暗い静かな空間、無言で作業する彼女、それらがないと週末は不完全な感じがした。
 そのようにして八月は終わった。九月に入ると一転して、客足はまばらになった。それまで二人で忙しく店内を歩き回っていたのが、どちらかはカウンターの後ろで遠くをぼんやり見つめながら棒立ちするような余裕が生まれた。彼女が煙草に出る回数が増えた。それでも、この状況を知り得ない店主は、しばらくの間僕たちを二人クローズまで働かせ続けた。
 ある時、客が完全に途絶え、閉店までまだ時間があるにもかかわらず店には僕と彼女だけになった。完全な暇は気まずく、作業を探し続けたが、しまいにはグラス類は完璧に磨かれ、カトラリーはあるべき場所に配置され、生ごみは全て店外の巨大なゴミ箱に葬られた。僕たちは恐る恐る、まるで少しでもそぐわないことを発言したらすぐに店を追い出される、というような調子で、話し始めた。この時、僕は初めて彼女が専門学校に通う学生であるということを知った。
 僕はその時初めて、小説を書いているのだ、と言った。
 あくまでも控えめに、しかし、少しだけ道化を演じるように言った。注意して発言しないと、そこには恥ずかしい尊大さが含まれてしまうような気がした。そして、お決まりの反応を待った。僕は不自然なくらいに彼女の表情を凝視した。笑ってくれれば一番よかったし、ちょっと軽蔑の表情を見つけるのも安心する。困惑されるとこちらも困ってしまう。
 え、すごいじゃん、と、彼女は言った。敬語を使わなかったのは初めてだった。彼女の眉が少しだけ上がることに気づいたが、それ以上の動きはなかった。通常得られるであろう反応の全てがその表情からは読み取れなかった。
 明日、持ってきてくださいよ、読みたいから、と言った。そして少しだけ笑った。彼女が笑うのを見るのは初めてだった。
 その夜僕は、家族が寝静まった後、自分の小説——全て新人賞の一次選考に落ちていた——を読み返し、一つ選び、それから読み返して気になる部分に手を入れた。自意識が満足していくのがよくわかった。
 僕たちは変わってよく話すようになった。彼女は最初に渡した僕の小説を読み、丁寧に感想までくれた。彼女は小説が好きだと言った。特に古典が好きだと言った。あなたの小説には、そういうエッセンスが感じられるから好きだと言った。最近の小説はくだらないものばっかりだと言った。僕たちはそれから毎晩のように、最近の有名作家や新人賞受賞者をこき下ろして楽しんだ。
 そんな日が数週間続いて、僕は突然喫茶店のアルバイトを辞めた。驚いた店主は理由をしつこく聞いてきた。それを納得させるような理由は僕も持ち合わせていなかった。僕は体調が優れなくなったとかなんとか言って、無理矢理店主を納得させた。でもわかっていた、箸にも棒にもかからない自分の駄作を熱心に読んでくれる人がいて、活躍する作家の悪口を言いあう心地よい環境に突然嫌気がさしたのだった。こんなところにいては自分は駄目になると思った。そうやって突然ぬくぬくした環境から姿を消すことに暗い刹那的な悦びを覚えた。生まれて初めて獲得した熱心な読者にはろくに別れも告げなかった。
 数日後に旧くからの友人の結婚式に出席した。そいつは小学生の頃からの幼馴染で、僕が地元の進学校に入学すると同時に就職した。僕が東京の大学に通う間に出世していった。帰省するたびに食事を奢ってもらった。いつでも仕事の様子を誇らしそうに語る様子に僕が感銘を受けることはなかったが、結婚式ともなれば流石に違った。お互いの家族が向かい合い、それを大勢の人間が見守るのは異様な光景だった。式の間中、僕はぼーっと遠くを見つめた。向かい合う両家の並ぶ壇上のさらに奥を見つめた。煌びやかな装飾よりもさらに向こうを見た。そこには三十年間という歳月の搾りかすのようなものが無数に積み上がっているように見えた。僕は親に貰ってきた祝儀を渡して酒を飲んだ。
 二次会に行く人間の間をすり抜けて会場を出た。風がやや強くて、酒で上気していた体がいきなり冷やされた、もう夏ではないことにいまの今まで気が付かなかった。
 酔っていたのと冷たいのとで、体に血液を送り出す流れを感じた。そうして言い訳をたくさん作ってあの喫茶店に足を向けた。惨めな感傷から目を背けたかった、しかし、彼女は今日もいるだろう、という予想が呪いのように頭の中を支配した。一時的に冷たい風から逃れる場所が欲しい、家に歩いて帰るのには遠すぎる、温かさとカフェインが必要だ、この時間まで開いている喫茶店などこの町には一軒しかないのだから——と僕はあの喫茶店に向かう正当な論理を構築していった。しかし同時に、ほぼ間違いなく、彼女は今日もいるだろう、どうしたんですか、と話しかけてくれるだろう……。
 僕が喫茶店前の曲がり角に来た時、突然、後ろの方で花火の音がした。あの延期になった花火が、今更?いや、もしかしたら、どこかの空き地で若者が打ち上げ花火をしただけなのかもしれない。光は見えないし、何も照らさなかった。しかし、その音は陳腐で、猥雑で、ポストシーズンの夜空を蝕んでいくものに他ならなかった。僕は薄暗い店内、動作、会話、音を鮮やかに思い出した。中年の小説家を自称する者に対する軽蔑と興味を思い出した。そして、自分があの店に再び入っていくに耐えないことを理解した。